2014年12月11日木曜日

芸術表象論特講#22

こんにちは。夜になると街が色鮮やかな電飾で飾り付けられて、にぎやかです。
11月26日におこなわれました、「芸術表象論特講」22回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、美術史家の太田智己さんでした。



太田さんは、「美術全集の歴史」というタイトルでお話してくださいました。

図書館などで見かける「美術全集」ですが、日本で最初に出版されたのは、1927年から1930年にかけて刊行された平凡社の『世界美術全集』(全36巻)でした。それまでの美術史書が500~1000部の売り上げに対して、この『世界美術全集』は12万5000部という驚異的な数字を打ち出しました。
そもそも『世界美術全集』は、当時大流行した「円本」の一種でした。「円本」とは、1冊1円で発売された全集などで、1926年に改造社が刊行した『現代日本文学全集』が始まりとされています。価格だけではなく、新聞への大規模な宣伝広告などもあり、多くの人々が購入しました。
配本の方法も戦略的にとられていたと言います。『世界美術全集』の巻数は、古い年代順に設定されています。しかし、配本になるとその巻数順ではなく、読者受けがしそうな巻から配本されていました。つまり、第1回配本に第17巻「ルネサンスと東山時代」、第2回配本に第7巻「ビザンチン・印度グプタ朝・唐時代・新羅統一時代・白鳳時代」といったように、ばらばらでした。実はこの手法は現在でも使われています。
『世界美術全集』の読者ターゲットは「家庭」でした。宣伝広告にもやたらと「家庭」の文字がでてきます。家庭で『世界美術全集』を揃えて持つ、ということは、当時一般には持つことのできない「家宝」を所有することと等しいことでした。子や孫の代までこの全集を「家宝」として引き継がせてゆく・・・。『世界美術全集』は、当然美術作品の写真が掲載されています。写真は印刷物であり、今ではそんなに珍しくありませんが、当時は美術作品を見るということは、なかなか出来ないことでした。なぜなら、今のように多くの美術館が存在しておらず、そうした機会がなかったためです。全集を持つことは「家庭」で美術館を持つことが出来るという「家庭美術館構想」というのもひとつのコンセプトでありました。全集を買うことで、家庭の教養や趣味がレベルアップする。そうしたことは、一部のエリート家庭でしか育むことができなかったのですが、これが一般家庭でも出来るようになる。そして置いておく、つまり中身を見なくても、持っていることで見かけだけでもそう見える、ということもありました。

この『世界美術全集』における「家庭美術館構想」の美術の社会普及は、これ以後の美術全集における定型フォーマットとなりました。

1960年代から1980年代になると、美術全集ブームが起こりました。この時期は高度経済成長にあたり、一般家庭で電化製品をそろえ、人々の暮らしにもゆとりが出始めていました。そんなとき、美術館の建設ラッシュもあり、美術に関心が集まりました。
小学館から刊行された『原色日本の美術』(1966~72年)は全集の金字塔と呼ばれている全集なんだそうです。シリーズの展開をおこなうことでアップデートしていき、1990年には50万部に達しました。そして最初の『世界美術全集』が持っていたコンセプト「家庭美術館構想」を引き継ぐものでもありました。その後、学研から刊行された『日本美術全集』(1977~80年)も「家庭美術館構想」を引き継いでおり、専用の本棚がセット販売されたそうです。

美術全集による美術の社会普及を見てきましたが、それ以外にもあると太田さんはお話してくださいました。
まずは、ラジオによる美術番組です。現在ではテレビやインターネットがあるのが当たりまえですが、以前は各家庭にラジオがあり、これが大切な情報源のひとつでありました。ラジオ放送は1925年に開始。様々な番組がある中で、美術の番組も存在していたそうです。番組としては、美術作品に関する解説など美術に関する事柄が研究者や作家によって語られていたそうです。しかし、音の情報だけでは不十分なため、補助教材としてテキストも販売されていました。
美術全集は購入しないといけませんが、ラジオは偶発的にアクセスできるため、たまたま聞いたことで興味を持つことがあるなどの利点がありました。現在ではテレビが普及し、ラジオでは出来なかった視覚情報を伝えることが可能となりました。
もうひとつは、サブカルチャーです。例えば、大衆小説(円山応挙を題材にした「応挙の幽霊」)、講談(演者が主に歴史にちなんだ読み物を観衆に対して読み上げる伝統芸能)、ラジオドラマ、児童書(作家の一生を描いたもの。『狩野芳崖』とか)があります。現在は小説や漫画の題材としても見受けられます。

美術全集は1990年代から2000年代になると、家庭では購入できない価格となりました。それに、「家族」自体が変化しているため、家宝を持つというモデルが崩壊しました。その代わり、やさしくてすぐにわかる解説で、薄い書籍類が出回るようになりました。
テレビによる美術番組も、テレビ離れやネットの普及によって、かつてのような状態ではなくなっています。美術館や博物館による展覧会も苦境に立たされています。なのでこれからはサブカルチャーによる美術普及が良いのではないかと、太田さんはおっしゃしました。

図書館などで見た「美術全集」に、このような深い歴史があることは、とても驚きました。美術の歴史でも、少し違った見方が出来たのではないかと思います。


太田さんの情報はここで見れます。


それでは。

芸術表象論特講#21

こんにちは。いつもいる館から別の館へ移動するために外へ出るとき、今までは平気だったのが上着を着ないと寒くてしかたがありません。
11月19日におこなわれました、「芸術表象論特講」21回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、アーティストの田中功起さんと冨井大裕さんでした。

▲左から冨井さん、田中さん

2011年にCAMPで「アートを実践することについて」というトークイベントで、杉田先生、田中さん、冨井さん、奥村雄樹さん(アーティスト)の4人が参加しました。その際に続きをしようと話していたこともあり、今回のレクチャーにお招きしたと杉田先生がおっしゃっていました。(残念ながら、奥村さんは海外に行っているためお招きできませんでした。)

レクチャーとしては、杉田先生を交えて3人でのトークとなりました。ブログでは、はじめに田中さんと冨井さんによる活動紹介がおこなわましたので、そちらを中心に書きたいと思います。

冨井さんは、昨年まで芸術表象専攻の「アート・プラクティス演習ⅡB・C」という授業をご担当してくださっていました。
冨井さんの作品は主に立体物で、“日常のモノをそんなにあり方を変えずに見せる”というスタンスで制作しているそうです。
例えば、バケツとぞうきんを使って、その属性は変えずにバケツとぞうきんではないけど、バケツとぞうきんみたいな・・・・・。
最近では、慶応義塾大学アート・センターでショーケースのプロジェクトに参加しています。作品は消しゴム3個を組み合わせたものと、台座。105個あるけれど、どれが本物なのかということは次第にどうでもよくなって、1個が良いのかとかそういうレベルでもなくなる。では、私たちはいったい何を見ているのかということになる。そして、印刷物は記憶なのか何なのか。展示しているものは記録なのか、それとも現実なのか・・・・。
この展示では、告知するための印刷物を作っていないそうです。そうなると、はたして人が来ているのかわからないそうですが、稀に来て置いてある印刷物を見ると数が減っているので、その減る量で人数をカウントしているそうです。そこに置く印刷物は、置いていると次第にしなってしまってもピタッとなる特別な台座を作ってもらい設置しているとのことです。

実際の現場で展示をするという人の理想と、
印刷物は配布されてその役割が終わるのではない別の理想と、
展示は印刷物があることで人と会話ができているのか、現場のものではないと会話ができないのか、
展示の翻訳の問題であって、その辺のことをみんなでやっているという感じだとおっしゃいました。
立体の作品もしながら、それがどう受け取られるかということを、印刷物などの関わりから見ようとしていると、冨井さんはおっしゃっていました。

田中さんは、昨年のヴェネチア・ビエンナーレ日本代表(キュレーター蔵屋美香氏)として参加、特別表彰を授賞しました。また、2012年度の「芸術表象論特講」特別版にゲストとして来ていただいたことがありました。
最近の活動としては、ニューヨークで開催されたフリーズ(Frieze)のアートフェアにプロジェクトとして参加したそうです。アートフェアとは、通常ギャラリーの寄り合いみたいなもので、世界中のギャラリーが集まってブースを借りて作品を売るというシステムです。フリーズのアートフェアはロンドンから始まりました。フリーズは雑誌(同名の『Frieze』)を刊行しています。単に売り買いだけではどうだろうと思っているフリーズのディレクターたちが、ギャラリー・ブースとは別の独立したプロジェクトとしてキュレーターに企画を任せます。。これが田中さんが参加した、屋内外問わずの比較的自由にアーティストのプロジェクトを展開する「フリーズ・プロジェクト」です。
ランドールズ島の公園内に一時的に設置されたテントが、アートフェアの会場になります。田中さんはプロジェクトをおこなうにあたり、通常はアートフェアに来ないような、このランドールズ島にまつわるコミュニティとか、実際にそこで働いている人びとや歴史に関係する人を毎日一人ずつ呼べないかと考えました。
1日目、実際にランドールズ島にある消防士のためのアカデミーで教官をしている消防士を呼びました。彼には実際に現場に出ていたときの話やアカデミーでの話などを、会場の方にしてもらったそうです。
2日目、詩人を呼びました。彼女には詩人サミュエル・グリーンバーグの本に直接言葉を書き込みながらグリーンバーグの詩をリライトしてもらいました。グリーンバーグは、島にあった精神病院(現在ある精神病センターとは違う建物)で亡くなるまで詩を書き続けました。存命中の彼は無名でしたが、ハート・クレーンという詩人がグリーンバーグの詩を再構築し自分の詩として発表したことにより、名が知られるようになりました。
3日目、サックスプレイヤーの方を呼びました。フリーズの隣にあるスタジアムで、昔ジャズのコンサートがおこなわれていたそうです。1930年代に実際にあったコンサートの映像がYouTubeにあったので、その中の曲をサックスプレイヤーの方に吹いてもらおうとしました。しかし、主催者側からは、音を出すことに難色を示されたため、サックスプレイヤーの方には、サックスではなく口笛を吹いてもらったそうです。しかも、そのプレイヤーの方がとても口笛が上手だったとか・・・。1時間に1・2回ほど吹いてもらい、お客さんのなかには、彼の口笛につられていっしょに口笛を吹いた人もいたそうです。
4日目、実際に公園内を常日頃走っているランナーの方に来てもらいました。その方はランニングのインストラクターもしていて、この島でそうしたランニングのコミュニティに関わっています。会場内でストレッチをしてもらい、実際に会場の外を走ってもらいました。
5日目、公園課の職員で島の歴史をよく知っている方を呼びました。彼はこの島で20年ほど働いているそうです。彼も1日目の消防士の方と同じように、会場に来ていたお客さんに島の歴史、島のさまざまな施設や問題点などについて話したそうです。
田中さんは期間中、毎日朝から晩まで通い、その日のプロジェクトを撮影して編集して翌日会場に設置しているモニタで上映されていたそうです。お客さん全体の1割もプロジェクトに気づいていなかったと思うとおっしゃっていました。実際におこなわれた様子をまとめた映像も見させていただきました。このプロジェクトは、アートフェアという場がそもそも売り買いと社交がすべてであり、そこに別の目的をどうやったら入れられるか、という実験だったということです。そうした所に別の目的を持った存在がいるとどんな影響があるのか・・・・など、そういうことを考える場であったとおっしゃっていました。

レクチャー後半の3人でもトークは、田中さんのアートフェアから、自分たちの立ち位置のようなこと。大きなアート展覧会みたいのでおこなわれる、内側からの批判と外側からの感覚など・・・・。作品を作るということだけではなく、見せること、それがどのようになっているのか、自分たちはどう思うのかということを、お話ししてくださいました。






既成概念の展示という手法ではない、別の方法で表現を追求しようとしている2人のアーティストの活動から、彼らを取り巻くことについて、お話してくださいました。学生たちにとって、作品を制作するということだけではないことを、考えるきっかけになったのではないでしょうか。


田中さんのHPはこちら

冨井さんのHPはこちら


それでは。

2014年12月1日月曜日

芸術表象論特講#20

こんにちは。いちょう並木では、落ちたいちょうの葉に雨が降り注いで、さらに黄色が鮮やかに見えます。
11月12日におこなわれました、「芸術表象論特講」20回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、アーティストの増本泰斗さんでした。



増本さんは、東京工芸大学の写真学科出身なのですが、学生時代は、写真を撮らずに絵ばかり描いていたそうです。レクチャーでは、入学する前や在学中に描いていた絵を見せてくださいました。
学校の授業にあまり出ないで、グラフティばかりを描く日々。その頃は特にアーティストになる気はなく、現代美術にもあまり触れたことがなかったそうです。

大学院生の頃に、杉田先生が主宰しているart&riverbankで個展(注1)をおこなったことをきっかけに現代美術に触れるようになり、興味をもつようになったそうです。大きな転機となったのは、個展の次に参加したグループ展でした。もともと、ポルトガルのリスボンで開催する予定だった展覧会でしたが、現地の都合でキャンセルとなり、その代わりに日本で開催された展覧会(注2)でした。
そんなことがなければ考えることがなかったポルトガルについて、展示という機会を通じて考えたり、調べたりしながら、思いを馳せるようになり、次第に行った気になってきたといいます。実際に発表した作品も、行ってもいないのに行ったかのように架空の旅行をテーマにしたそうです。行ったつもりになって書いた日記。合成してつくった観光写真など。そのときの生活やおかれている状況をそのまま展示したかたちでした。
そうした経験は、ある意味における「適当」の良さ、美術における形式や文脈などの「枠組み」にこだわらない良さを感じたそうです。最初の個展ではミニマルな作品をかっちりと作る感じだったこともあり、正反対のやり方もあるのだと発見があったそうです。

大学院修了後は、MAUMAUS(注3)というインディペンデントのアート・スクールが主催するレジデンスを利用して実際にポルトガルのリスボンへ行くことになりました。当初は、ポルトガル語はおろか、英語も満足に話すことができなかったのですが、それでも積極的に話しかけていた増本さん。自分自身は相手にいっぱい話しかけてコミュニケーションが取れた気でいたけれど、周りからしたらこの人何言っているの・・・状態が1年間ぐらいは続いていたそうです。その頃につけていた作品としての絵日記を見せていただきました(注4)。コミュニケーション不全と、奇跡的に通じ合う瞬間を通して、異なる者やコトについて考えさせられる良い機会となったそうです。
また、ポルトガル滞在中の2007年は、ドクメンタとヴェネツア・ビエンナーレ、ミュンスター彫刻プロジェクトの3つの展覧会が同時に開催される特別な年だったそうです。日本料理屋のアルバイトだけで生計を立てていたので、あまりお金がなかったそうですが、どうにかしてでも行こうと思い、友人と一緒に、ヨーロッパ版の青春18切符のような1ヶ月フリーパスをベルリンの偽造チケット屋から購入し芸術祭を見る旅にでかけました。旅行自体は2週間ぐらいでしたが、有名な作家の作品だけでなく、同時代の雰囲気を感じることができたのが良かったそうです。

その後、日本へ帰国して2010年に京都へ移り住みます。京都では、ある物件の家賃を複数でシェアすることで集まっているアーティスト・コレクティブ「Collective Parasol(注5)」をはじめます。「まとめることをやめること」をポリシーに、やりたいと思う企画は、メンバーの承認や合意は必要なく、日程さえ合えば勝手に実施することができるというような集まりだったそうです。テート・モダンで開催された「No Soul For Sale(注6)」という展覧会にも呼ばれたりもしましたが、結局一年半ぐらいで物件を手放してしまいそのままCollective Parasolは解散しました。
また、京都の専門学校で非常勤講師をしているので、そこでの授業を記録して公開しています(注7)。授業という枠組みを使って、その時々に気になることを学生と一緒に考えながら実験したりしているそうです。例えば、戦争のイメージを別の角度から考えようとする授業(注8)や、原発作業員について身体的なアクションを通して考えようとする授業(注9)などを紹介いただきました。
さらに、増本さんのひいおばあ様がヒロシマの原子爆弾投下の際に、爆風で倒れてきた衣装箪笥の下敷きになった体験をもとにした「Protection(注10)」という作品の記録映像を見せてくださいました。
その他には、「予言と矛盾のアクロバット(注11)」という、「矛盾」と「直感」を大切するプラットフォームや、杉田先生と不定期に行っている実践「ピクニック(注12)」など、これまでの活動や継続中の活動についてもお話ししてくださいました。

グラフティを描いていた学生時代から、現在の活動に至るまでのいくつかの転機を見ていると、そこには、学生たちにとって作品と向き合うための、また別の可能性が示されていたのではないかと思います。



増本さんは、最近本を自費で出版されたそうです。こちらから購入できます。

その他、増本さんの詳しい活動については、HPなど下記URLなどで確認することが出来ます。


文中の注釈についてはこちらを参照ください。
(注1)最初の個展「All Notes Off」
https://plus.google.com/u/0/photos/101989624643088460124/albums/5827421502690253505

(注2)ポルトガルで開催するはずだった展覧会がキャンセルになったため日本で開催した展覧会
「do fim ao fim」
https://plus.google.com/u/0/photos/101989624643088460124/albums/5827422045562825601

(注3)MAUMAUS
http://www.maumaus.org/

(注4)ポルトガル生活の絵日記「Vinho da Casa de Banho」
https://plus.google.com/u/0/photos/101989624643088460124/albums/5630512897900413377

(注5)Collective Parasol
http://collective-parasol.blogspot.jp/

(注6)No Soul For Sale
https://plus.google.com/u/0/photos/101989624643088460124/albums/5821946749670134225

(注7)授業自体がひとつのアートの実践「Grêmio Recreativo Escola de Política」
http://gremiorecreativoescoladepolitica.org/

(注8)戦争のイメージを別の角度から考えようとする授業
https://vimeo.com/37885310

(注9)原発作業員について身体的なアクションを通して考えようとする授業
https://vimeo.com/109844456

(注10)Protection
https://vimeo.com/18836555

(注11)予言と矛盾のアクロバット
http://aaccrroobbaatt.com/

(注12)Picnic
https://www.facebook.com/pages/Picnic/259375414100782

それでは。

2014年11月25日火曜日

芸術表象論特講#19

こんにちは。雨が降ると寒さが増して、もうすっかり冬なんですね。
11月5日におこなわれました、「芸術表象論特講」19回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、劇作家・アーティスト・PLAYWORKS主宰の岸井大輔さんでした。



レクチャーでは、岸井さんと演劇についてお話してくださいました。

岸井さんは中学校へ進学したときに演劇部へ入部しましたが、男子校だったために部員いなかったそうです。
部活に所属していると、いろんな劇団から部に招待券が送られてくるので、それを利用してお芝居を見に行っていたそうです。だいたい演劇部というのは部員がみんな仲良しで、演劇もみんなで
見に行ったりするものらしいのですが、岸井さんのところはそうではなかったため、招待券を自分のものに
出来ることを中学1年生のときに気づいてしまった。なので、2年生から組織的に集め、当時はオペラも歌舞伎も
招待券で見に行けたそうです。また、学校の近くに太田省吾さん(劇作家・演出家)の稽古場があり、よくそれも見に行っていたそうです。

演劇をするために、早稲田大学へ進学します。演劇を学べる大学は当時あまりなくて、早稲田でサークルに入ってというのが一般的だったそうです。
そのころから、美大に通っている友人が増え、そうした友達と一緒に展覧会も見に行っていたといいます。当時は、コンテンポラリーダンスとかがあまりなく(舞踏はありましたが)、現代アートの展覧会も現在のようにおこなわれているというので
はありませんでした。それでも、美大の友人とかと展覧会を見に行くことがあり、そうしたものを見ていて"演劇だけが古い”ということを思ったそうです。

岸井さんが大学を卒業した頃、世の中はバブルが弾けたときでした。演劇界には平田オリザが出てきて、小さな声で日常で起きていることをリアルにおこなう、そんな静かな劇が流行り始めます。まるで写実的な劇でびっくりした。演劇だけは遅れていると思っていたけれど、いきなり19世紀に戻ったかのような怖さがあったと岸井さんはおっしゃっていました。

音楽や美術にはそうしたことが起こりにくいのはなぜなのか。例えば、絵画ではニューペインティングなどがありますが、急に全員が風景画を描きだすようなことはあまり考えられません。音楽だったら、急にみんなががベートーベンみたいなのを作曲し始めるということもあまり考えられない。しかし、演劇では急に明日から日常を描き始めるということが起きてしまう。
そして、なぜ演劇だけ遅れていたのかと考えたとき、モダニズムが原因なのではないかと思った。絵画とは何か考えなくても、例えばバウハウスとかそういうところの人達が考えて、概念を提示してしまっている。一度、そうして提示されることで戻れなくなるということもあるが、そのおかげで、みんなが一斉にモダンへ戻るということはなくなった。音楽でも同じことがあり、例えばジョン・ケージは鳴っている音は全部音楽だという考え方を提示した。
そうなると、演劇とは何かということを考えるようになる。岸井さんは、そういう作品を作ることを決めたそうですが、これは思っている以上にとても大変なことをしなくてはいけない、ということに気がつきます。演劇とは何かということを決めて、その作品を作るとなると演劇運動みたいだけれど、周囲にそういうことをする友人はいなかったのもあり、1年くらい放置しました。しかし誰もそうしたことをおこなわないため、岸井さんは行動を起こしました。

演劇とは何か。岸井さんがたどり着いたのは「集団」でした。演劇は人間が必ず複数人いる。学校、宗教、地域、家族、都市、国家、人類・・・。集団があればそれぞれに演劇行為がある。演劇があるから人が集まってくる、集団があるから劇が生まれる力が強いと思ったそうです。
今、私たちは村でも都市でもない所に住んでいて、その場所には人が集まってくる状況が必要となる。その場所にあわせたコンテンツが出来てくる。そのコンテンツを作ることをしようと、岸井さんは思い、人が生きている所を調べ、そこの社会に合わせて場所を作り、その中で劇を作る・・・。32歳のとき、決意して外へ出て行きます。

まちで劇を作ろうと考えたとき、そのまちに実際に住んでみて作ろうと思いつきます。たまたま演劇を見に来ていたお客さんの中に、自分のまちはどうですかと声をかけてくれた方がいたため、2003年から2009年までは2・3ヶ月おきに違う町をフィールドにしていたそうです。レジデンスなどの施設を利用するようになったのはここ2年くらいなのだそうです。

岸井さんは、依頼されたまちへ行き、実際に住みながら活動をおこなっています。
2000年から2007年頃までおこなっていた「POTALiVE」(観客は駅で待ち合わせて、そのまちについて案内されながら散歩する。そのまちに住んでいる人々の行為を演劇に見るように作品化する)や、「創作ワークショップ」(12回の講座を受けた人は誰でもその手法で公演をやっていい。これまでに150人くらいの卒業生がいます)。2005年から2010年までおこなった「LOBBY」(そのまちにとっての入り口を創る。俳優やダンサーなどの人達がそのまちを一緒にめぐったり案内したりする)。また、東京アートポイント計画の一貫としておこなわれている「東京の条件」(ハンナ・アーレント『人間の条件』を戯曲とみなし、東京を舞台に東京に上演可能なようにあてがきをして「公共の戯曲」を創る上演時間3年間の演劇)、「会議体」(150日間に開かれた会議を300回開催する)など、これまでの活動についてお話してくださいました。


演劇が集団である、という岸井さんのお話を聞いていると、生活を営んでいる人が実は何かしらの演目をしている、すると私たちもなんらかの演目を演じているのかも・・・。となどと考えてしまいました。演劇といういわゆる固定概念を越えて活動されている岸井さんの活動は、学生たちにとっても刺激になったのではないでしょうか。


岸井さんのHPはこちら

ブログもあります


それでは。

2014年11月21日金曜日

芸術表象論特講#18

こんにちは。もうすっかり寒くなって、学校の前にある公園がかなり色づいていて綺麗です。
10月15日におこなわれました、「芸術表象論特講」18回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、建築批評家・RAD主宰の川勝真一さんでした。



近代建築といえば、白くて四角く、窓が規則的で装飾が少ない・・・という様式とされます。これは1932年におこなわれた「近代建築:国際展(MODEN ARCHITECTURE: INTERNATIONAL EXHIBITION)」でキュレーターを勤めた、ヘンリ=ラッセル・ヒッチコックとフィリップ・ジョンソンの共著『インターナショナル・スタイル』によって示された特徴です。そのタイトルがそのまま近代の建築スタイルの名称として有名になりました。
時代は飛んで、1964年に「建築家なしの建築展」がおこなわれました。それまでの展示は、ある意味最新の建築が対象として扱われて来たのに対し、この展示では、建築家が関与しない市井の人たちの手による建物に注目が集まりました。
さらにポスト・モダンと言われる時代へ入ると、インターナショナル・スタイルからいかに距離をおくかということが模索されるようになります。
1980年、ヴェネチア・ビエンナーレ建築部門の第1回展「THE PRESENCE OF THE PAST」がおこなわれ、過去の様式や地域の文脈というものを、近代建築の中にどうやって組み込んでいくのかが目指されました。この展示では、近代建築の白くて装飾がないというストイックなものではなく楽しげで豊なものを、普遍的なものではなくその場所らしさをどうやって作っていくか、様々な様式をとりこんだ折衷主義を目指すという3つの特徴がありました。
1988年には、1932年にインターナショナル・デザインを提唱したフィリップ・ジョンソンは、「DECONSTRUCTIVIST ARCHITECTURE」という展示をおこないます。これはより純粋に形態操作にフォーカスされており、折衷主義に対抗するものでした。
1995年「Light Construction」というミニマムで透明感を持った建築を紹介する展示がおこなわれます。コンピューターの普及やデジタル時代においてディスプレイで建築を捉える時代に、どういう建築がふさわしいのかという様式として捉えようとしました。
一方、日本では2000年に「空間から状況へー10 city profiles from 10Young Architects」(ギャラリー間)という若手の建築家を紹介するインスタレーション形式の展示がおこなわれました。1990年代の建築は、哲学的で難解な言説と奇抜な造形物を作るというイメージを社会に植え付けたが、これに対してもっと建築を身近でカジュアルなものとして捉えることを目指したものでした。
2008年になると「風景の解像力ー30代建築家のオムニバス」(INAXギャラリー)として、「空間から状況へ」展の次の世代となる1970年代生まれの若手建築家の紹介する展覧会がありました。ここではどういう解像度で風景を見るかということが重視され、非常に繊細で、感覚的な表現を中心に様々なアプローチが示されました。
2010年、「建築はどこにあるの?ー7つのインスタレーション」がおこなわれました。これは東京国立近代美術館で開催された企画展示です。日本の「国立」の美術館で建築の企画展示がおこなわれたのは初めてのことでした。25年前に世界を巡回している建築の展覧会を開催したことがあったそうですが、それは日本オリジナルの企画展ではありませんでした。展示は、世界的に評価されている日本人建築家を幅広く紹介しました。日本人建築家だけというのも、初めての試みだったそうです。そもそも、日本には「建築」という概念が昔からあったわけではありません。日本の建築界では、状況なのか、風景なのか、現象なのか、環境なのか・・・という問いをずっとおこなってきたように思われます。建築とインスタレーション以外のコンセプトが存在しない展示だったそうですが、思考法をより良く理解し、インスタレーションの中にどうやって建築というものを見つけていけるか、建築というものを定義するのではなく、各人が定義を見つけだすということを重視していました。
再び海外へ目を向けると、2010年から2011年に「Small Scale, Big change New Architectures of Social Engagement」がMoMAでおこなわれました。この展示は問題解決のための本当のニーズに合ったものはどいうものか、というのをとりあげた「DESIGN FOR THE OTHER 90%」(アメリカスミソニアンノクーパーヒューイット国立博物館、2007年)という展示をベースにしていました。展示では、充分なサービスを受けられていないコミュニティーのために地域的な必要に応じた建築プロジェクトを紹介しました。それまで、建築はどういう様式性を現代に持つかというのを問題にして来ましたが、それが扱えなくなってきた。建築家という専門家だけではなく、そうではない人間が携わるにはどうすればいいのかという問題へシフトしていきました。

近代建築について見てきた後で、川勝さんは若手の建築家を紹介してくださいました。
403 architecture dajibaは浜松で活動しています。自分たちの半径500mという限定されたエリア内でプロジェクトを続けています。地域から出た廃材を用いて小屋を作ったり、町づくりの提案などをおこないます。地域の物理的なものだけではなく、その場所やそこに住んでいる人を含めて、限定したエリアの中でどのような実践が出来るかを考えています。

連勇太郎(モクチン企画)は、「ネットワーク アーバニズム」という言葉で、建築デザインを資材に出来ないかという、アイデアやデザインをどうやってモノのように扱えるか、専門家だけではなく様々な人が交換したり共有したりできるかをテーマに活動しています。建築のアイデアをレシピ化することで、建築家だけが関わるものではなくて、どれだけ建築というものに主体的に関わっていけるかということを、システムとして都市の中に展開できるかということを考えています。

そして、川勝さんが所属しているRADRESEARCH for ARCHITECTURAL DOMAIN)は 京都を拠点に5人(川勝さんを含む)で活動しています。パフォーマティブなリサーチとアーカイブ化ということをおこなっているそうです。建築のデザインはしていませんが、展覧会やワークショップを企画しています。ある状況や場所に介入していき、いったんその仮説的な仕組みを作ると、いろんな出来事がおこってくるとおっしゃいました。外からの出来事を感知するだけではなく、一度状況を作り出した上で、そこでどういうことが起こってくるのかということを、その場所に対する問いかけみたいなものを見つけていくということが大事なのではないかと思っているそうです。
このRADは、川勝さんたちが大学院を修了してからすぐに立ち上げました。活動を始めるにあたり、自分たちの正しい問いを見つけるためのレクチャーができないか。そこから「Quwry Cruise」という企画をおこないます。活動拠点の場所はとても狭く、この限られたスペースで、出来るだけ頻度を少なくして内容を濃くし、受講料をとれる仕組みでゲストを呼んでレクチャーなどをおこないました。建築ってなんだろうという自分たちの問いに対して答える場所を見つけるために、「radlab. exhibition project」を企画しました。建築家の人たちに限られたスペースで自分の思考やコンセプトをどういう形で落とし込むか、その人にとって建築とは何かということを作品にして展示しました。

また今年このレクチャーに来ていただいた、イ・ハヌルさんと山田麗音さんがキュレーターとして展示した施設「HAPS」は、RADでおこなった町家改修ワークショップによって作られた施設でした。ワークショップには100名以上の方が参加されたそうです。ここでは、どうやって改修したかを「なるべく隠さない」ようにして、またこの町家の改修を通して別の町家の改修を促すツール作りがおこなわれました。

他にも、廃村になった集落に関するワークショップなども紹介していただきました。

近代建築についてMoMAを中心に見てくると、MoMA主導で建築の流行が作られ、海外では様式を問題としていることがわかります。また、日本には建築の基礎がないために、様式以前の問題に関心があることがわかりました。そして現在では、建築そのものだけ、専門家そのものだけではなく、その周辺にいる住む人、地域の人、地域そのものといったつながりに「建築」の意義を見いだそうとする活動が若い人たちからも起こっているようでした。

普段、美術という場所にいると、建築は少し遠い存在のような気がしてしまいます。それはこの大学に建築の名を掲げた専攻がないからかもしれません。おそらく、それだけではないにしろ、建築が抱えてきたことと、美術が抱えてきていることは案外同じものかもしれません。学生たちも、そうした発見があったのではないでしょうか。

RAD

403 architecture dajiba

モクチン企画


それでは。


2014年10月24日金曜日

女子美祭2014開催!!

こんにちは。雨が降り続いていたのが、やっと晴れました。
今日から、女子美祭が始まりました。

少しだけですが、芸術表象専攻の展示を紹介したいと思います。

2年生
フェチシズムをテーマにした展示とワークショップをおこなっています。

 ▲場所は5階の奥。この先の教室です。
 ▲この教室です。
    ▲手前と奥で違います。奥ではワークショップをおこなえます。

▲1号館エレベーター内も担当しました。


3年生
現在開催中の「ヨコハマトリエンナーレ」のテーマを、芸術表象仕様に変えて共同で作品を制作しました。ワークショップもおこなっています。


 ▲場所は12号館1階、1214教室です。新聞紙で作られた
葉っぱが目印。


▲メインはこれです。写っていませんが、手前にはワー
クショップをおこなう場所もあります。


今年度より、芸術文化専攻の1年生が入学しました。彼女達の展示も紹介します。

 ▲場所は10号館2階の1021教室。2号館2階からの渡り廊
下のすぐ先にあります。
  ▲展示は、授業で学んだ現代アートの作家や作品を中心に、
   英語によるクイズと、すごろくを体験することが出来ます。


詳しくは、実際に見に来て体験してください。
それと、芸術表象専攻で担当している「アートプラクティスⅡC」の作品展示もおこなっています。10号館3階にありますので、探してみてください!!


明日からは、オープンキャンパスも兼ねていますので、受験を考えている高校生のみなさんは、是非いらしてください。

女子美祭2014 
場所:女子美術大学 相模原キャンパス(杉並キャンパスでも同時開催)
日時:2014年10月24〜26日 10時〜17時
※詳細はHPをご確認ください
http://joshibisai2014.info/index.htm(相模原キャンパス)
http://joshibifes2014.boo.jp(杉並キャンパス)

同時開催のオープンキャンパスは時間が10時〜16時までと異なりますのでご注意ください。
http://www.joshibi.net/oc_festival2014/

それでは。

2014年10月15日水曜日

芸術表象論特講#17

こんにちは。台風がさって少し暑いかなと思ったら、肌寒く、何を着たらいいのかわからなくなります。
10月1日におこなわれました、「芸術表象論特講」17回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、アーティストの白川昌生さんでした。



白川さんには、昨年11月にもこの授業でレクチャーしていただきました。その時はご自身のこれまでのことを中心にお話ししてくださいました。そのことも、このブログに掲載させていただきました。
今回のレクチャーでは、今年の3月15日から6月15日まで群馬県のアーツ前橋で開催された「白川昌生 ダダ、ダダ、ダ 地域に生きる想像☆の力」を中心にお話していただきました。

アーツ前橋は昨年オープンしたアートスペースです。美術館とほぼ同じ機能を持っていますが、美術館とは呼ばずに“アートスペース”としています。これには、前橋市の政治的な問題が絡んでいるそうです。
現代美術というと、一般の人にはわかりにくいと思われています。そのため、市の建物で展示することが税金の無駄遣いだと思っている人もいるそうです。なので、年間で何人の入場者がいたかという数字の問題はついてまわります。使用している建物は、かつて西武デパートだった別館を利用しています。これは、20年程前に西武が撤退してから何もテナントが入らず空のままだったのを、前橋市が買い上げて文化施設へしました。建物は本館と別館があり、本館の地下は地域のスーパーに貸し、2階を図書館と公民館に、他の階は地域にある医療系専門学校へ貸出しました。別館は長らく手付かずでいましたが、それをアートスペースとして再利用することになります。内装のデザインコンペはもともと内々でおこなうところを、現在のアーツ前橋の館長になる方や他の方々からの意見によって、公開となったそうです。
年に2回、春に作家の個展、秋にグループ展を開催し、その間はワークショップなどをおこなうことになっています。収蔵作品もあり、地域で住んでいる作家の絵画作品を中心としているそうです。

実際に白川さんの展示の写真を見せていただきながら、作品の解説なども交えてお話ししてくださいました。

白川さんは、アートの役割を次のように語っていました。
人間の記憶というものは、モノや言葉というのがないと残らないので、その役割のひとつとしてアートがある、そういう働きが出来るのではないかと思っている。絵を描いたり彫刻したりということも、もちろん造形的な味もあるけれど、何か感覚的な、そういうものを残す為の手段として作っている。人間は何も対象がない状態では、記憶を呼び戻したりすることはできないんじゃないか。だからモノがあることで初めて過去が蘇ったりする。例えばマルセル・プルーストではないが、マドレーヌを口にいれたらその味とともに自分の小さい時の思い出が蘇るではないけれど、それはモノがないと蘇らないってことでもある。記憶は忘却と隣り合わせだから、そういうことがなければ蘇ってこないと思う。美術作品の役割はある種、そういうところがあると思っている。絵画でもなんでもいいけれど、見て初めて喚起される、見なければ喚起されない。そいうモノとしてのアートというものはあると思います。
また記憶ということについて、征服する人や支配者というのは、そういうことをよく知っているから、弱い人の心の支えになるような、例えば思い出の家や写真とかそういうモノを取り上げて破壊する。そうするとで、その人にとっての記憶や過去が無くなってしまい、思い出そうとしてもリアルな形で蘇ってはこない。思い出そうとしても、ぼわーっと何かがあるけれど、リアルな形で蘇らせるにはやはりマテリアルなモノが必要になってくる。それを奪ってしまうというのは暴力だけど、戦争は相手の国を殲滅させようとすることだから。その殲滅させてしまうということは、相手の国にある記憶みたいなものをみんな消してしまうということなのではないか、とおっしゃっていました。

今までの作品の中から、いくつかピックアップしていただいて、解説していただきました。写真だけではなく、映像もいくつか見せていただきました。

今の時代、絵画とか彫刻とか数千年前から続いている古いメディアもあり、それは無くならないで、これから先も絵画とか彫刻とかは続いていくのだと思います。その他の新しい様々なメディアは時代とともに増えていき、それを今に生きている人たちは同時に使っていく。今の若い人たちには、こだわらずに有能なメディアで表現してゆけば良いのではないかと思います。というようなことを、白川さんは学生たちにおっしゃってくださいました。

白川さんの作品は、自分が住んでいる場所と自分自身のこと、その場所に住んでいる人々。群馬という場所とそこに住む自分を含めた人々との関わりが作品になっています。そして、白川さんの作品を見ることで、通りすぎて行ってしまう人が地元の記憶を呼び覚ます。その場所で活動する意義はここにもあるのではないでしょうか。学生たちは、アート作品を制作することとは何かを、考えるきっかけになったのではないでしょうか。


アーツ前橋のHPはこちら



それでは。

芸術表象論特講#16

こんにちは。台風が2つも続けてやって来て、驚きです。
9月24日におこなわれました、「芸術表象論特講」16回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、美術・映画評論家の西村智弘さんでした。



西村さんは、映像や現代美術の評論を執筆されています。最近は、アニメーションの論文を執筆されたりしているそうです。
今回のレクチャーでは、「日本におけるアニメーションの概念」というテーマでお話してくださいました。
現在では当たり前のように使っている「アニメーション」という言葉ですが、日本で使われるようになったのは、おおよそ1960年代以降からでした。では、それ以前にアニメーションがなかったのかというと、そういうことではなく、アニメーションに該当する作品は存在しました。呼び方も別の言葉を使用していたのですが、アニメーションという言葉が使われないということは、その概念がないのと同じことです。
つまり簡単に言ってしまえば、戦前と戦後では価値観が違っているということなのです。

1960年代、アニメーションという言葉が使われだしたとき、それは何を指していたのか。森卓也『アニメーション入門』(1966)では、アニメーションとはコマ撮りによって作られた映画であると規定されています。それがこの時代に定着したアニメーションの概念でした。

そもそも、アニメーションはいつからあるのでしょうか。これには2つの考え方があるそうです。
ひとつは、エミール・レイノー「テアトル・オプティーク」(フランス、1882)からとする考え方と、もうひとつはスチュワート・ブラックトン「愉快な百面相」(アメリカ、1906)からとする考え方です。エミール・レイノーからとすると、アニメーションは映画よりも早く誕生したことになります(映画は、リミュエール兄弟が1885年に発明しました)。となると、スチュワート・ブラックトンが最初という捉え方になりますが・・・。この「愉快な百面相」は1907年に日本へ「奇妙なるボールト」というタイトルで入ってきました。日本はかなり早い時期、ほとんど同時代的に欧米のアニメーションが入ってきます。
初期のアニメーションは、舞台上で実際に絵を描いていく「ライトニング・スケッチ」の延長からきており、スチュワートが実際にトーマス・エジソンの似顔絵をスケッチしている映像を見せていただきました。
「愉快な百面相」は、黒板にチョークで描いているのをコマ撮りしたものです。切り絵なども用いて、動きをつけました。
漫画絵のようなアニメーションよりも先に、実写によるアニメーションの方がさかんに公開されていました。漫画のアニメーションで日本に最初に入ってきたのは、エミール・コール「The Musical Maniacs」(フランス、1910)でした。この作品は「凸坊新画帖」というタイトルで公開されました。ちなみに、タイトルは内容と関係ないそうです。その後に公開されたC・アームストロング「Isn't Wonderful?」(アメリカ、1914)も「凸坊の新画帖」というタイトルで、漫画アニメを公開する際にこのタイトルで公開することが一般化してしまったそうです。一度話題になると、同じ名前を使ったりする発想からきているようですが、制作された国や作家が違っていても全て同じタイトルなので、区別をつけるときは、サブタイトルに例えば「悪戯小僧の巻」と入れて変化を付けていました。「凸坊」とか「新画帖」だけでも漫画アニメであるということになり、また当時は漫画と言えば喜劇ものだったので線画喜劇とも言ったそうです。
他に、人形映画というのもありました。1930年に公開されたラディスラス・スタレビッチ「魔法の時計」(フランス、1930年)は、当時評判になった人形映画です。この作家の「カメラマンの逆襲」という作品を実際に見せていただきました。ラディスラス・スタレビッチが手掛ける映像に出演しているのは虫ですが、社会風刺の作品も多かったそうです。手法としては現代で言うクレイアニメに似ている気がしました。

戦前の日本には、漫画によるアニメーションが凸坊新画帖、線画、線画トリック、線画喜劇、線画映画、漫画映画、などと呼ばれ、影絵映画、人形映画、絶対映画といったジャンルもありました。アニメーションという言葉では括られていませんが、見る側にとって何が見えているかということで分けられていたようです。そして1960年代になると、コマ撮りで制作しているものをアニメーションと見なす発想が定着します。
現在はアニメーションの概念が崩れている時代で、特に1990年代以降の技術面の向上や進歩によって広がりをみせていて、それまでの概念は通用しなくなっています。いったん崩れてしまったものが元に戻ることはなく、今後アニメーションを規定することはますます難しくなってきていると、西村さんはおっしゃっていました。そうした今は、戦前のアニメーションに対する見方を改めて注目する価値があるのではないか。技法だけで区別できなくなってきているアニメーションは、どういう風に見えているのかということ自体を問題にせざるをえなくなってきている。戦前はアニメーションの概念が確立する前であって、見る側にとってどのように見えているかが問題だった。1960年代以降は、制作技術に重点を置いてアニメーションが概念化されたが、技術の進歩により制作の幅が広がっていった90年代以降は、いったん確立されたアニメーションの概念が解体される状態になっているので、むしろ戦前に近づいているのではないかともおっしゃっていました。
結局のところ、技術面に重点を置く戦後のアニメーションの捉え方は、作り手の視点に立つものです。実際に作品を見る一般のレベルで言えば、その作品がどのように作られているかは二次的な問題であって、その作品が面白いか面白くないかの方に関心があるわけであり、どのように作られているかは気にしないのが普通のことだともおっしゃっていました。


今日、当たり前のように使っている「アニメーション」という言葉ですが、何がそうで何がそうではないということは、あまり深く考えないで言っていることに気がつきました。戦前の様々な言い方について、貴重な作例を見せていただきながら、西村さんに解説していただきました。大きく言えば映像の技術、CGの技術の進歩の目覚ましさが近年見受けられて、誰でも簡単に作れるようになってきていることは、作り手と受け手側の境界をあいまいにしているのでは・・・。美術大学で学ぶ学生としては、そういうことも考えられたのではないでしょうか。

西村さんのHPはこちら

西村さんの著作もチェックしてみてください。
『スーパー・アヴァンギャルド映像術ー個人映画からメディア・アートまで』(共著)
『日本芸術写真史ー浮世絵からデジカメまで』


それでは。

2014年9月22日月曜日

芸術表象論特講#15

こんにちは。残暑が厳しい中、大学は9月の2週目から後期授業が始まりました。学生たちにとって夏休みは、あっという間だったかもしれません。
9月10日におこなわれました、「芸術表象論特講」15回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、依田徹さん(日本美術史家)でした。



依田さんは東京藝術大学大学院博士課程を修了した後、さいたま市に採用されました。そこで学芸員として、さいたま市大宮盆栽美術館の立ち上げに関わり、3年半ほど勤務されていました。
今回のレクチャーでは、さいたま市大宮盆栽美術館についてお話していただきました。

盆栽美術館は、さいたま市が平成22年に開館した、盆栽を中心とした美術館です。名前の通り主な美術品は盆栽です。地場産業を観光資源として活用しようと誕生した施設です。
現在のさいたま市は、平成13年に浦和市・大宮市・与野市が合併、平成17年に岩槻市を編入して現在の形になりました。旧大宮市には昔、盆栽村というのがありました。現在は北区の盆栽町となっています。
そもそも、盆栽の職人は東京周辺にいました。もともと江戸の名残が東京にありましたが、震災によってそれが破壊されてしまいました。そして関東大震災後の復興による都市計画で、東京を近代都市化させる中で、盆栽園の居場所がなくなりました。盆栽園は広い土地ときれいな空気・水がなければなりません。そうして、震災の翌年に、巣鴨にあった盆栽屋の大手のひとつが大宮の北側に引っ越してきます。そのあたりの土地を借用して開拓し、盆栽家の愛好家が集まる自治村として変えていきます。最盛期には30件以上あった盆栽園ですが、現在では6件程になりました。盆栽の愛好家たちには、聖地として呼ばれています。盆栽町の難しいところは、高級住宅街へと変貌してしまったことで、地価が高くなっていることです。埼玉県内でも屈指の高級住宅街といわれます。

現在のさいたま市は、政令指定都市であり、東京のベッドタウンとして栄えていますが、観光資源はほとんどありません。昔、秋葉原にあった交通博物館を旧大宮市に誘致するなどしていますが、その場所だけで活性化はしません。そこで、前の市長が大宮に盆栽美術館、岩槻に人形会館(仮)を作る計画を立てました。
盆栽美術館は、当初「盆栽関連施設」としての計画で、コレクションを持たない、展示場的な施設でした。その計画途中で、市ヶ谷にあった「髙木盆栽美術館」のコレクションを購入することになり、コレクションを持つ美術館へと変更します。そこから、設計が進んでいたところを、美術館へ変更しました。

美術館としているので、所蔵品の調査研究をしなければなりません。それが学芸員の仕事でもあります。盆栽はどのような調査をするかというと、来歴を調べることから始まります。資料としては、盆栽の雑誌は明治30年頃に発行されたものがあります。そうしたところからデータを収集。また、盆栽の展覧会は昭和9年から始まっているので、そこからも情報を探します。売り立てのカタログも存在しますから、そうしたところからも調査をおこないます。
収集した過去のデータにある盆栽の写真と、現在の盆栽を見比べて、何がどの盆栽かを調べます。しかし、生き物である盆栽は、年月と共に形も変わっているはずです。見分けられるのか疑問でしたが、依田さんがおっしゃるには、重要なポイントは根元なのだそうです。上の部分(葉や枝とか)は変わっていくけれど、根元はあまり変わらないのだそうです。
また、盆栽の鉢の年代も調べることもしました。しかし、先行研究がありません。日本国内のものならなんとかなったそうですが、中国製となると難しかったそうです。

依田さんは、盆栽美術館の展示品をいくつか見せて、解説してくださいました。

盆栽美術館というので、盆栽は果たして美術なのかという点について、美術だと無理に言わなくても良いのではないかと思っていると、依田さんはおっしゃいました。
そして、盆栽は日本文化かというと、江戸後期に生まれた「盆栽」は、中国趣味の人達が中国から輸入してきた鉢に盆栽を入れることで、現在の形が出来たので、盆栽は中国趣味に属していました。それが昭和になり、盆栽は国風主義だということに乗り換えがおこります
美術かどうかというよりも、盆栽という文化があり、それを日本人は長年楽しんできたということが重要なのではないかと思っていると、依田さんはおっしゃっていました。


盆栽美術館の立ち上げを通して、美術館を作るのは難しいということをお話ししていただきました。また、盆栽という特殊なものを扱う難しさも同時にありました。学芸員資格取得を目指している学生は、現場の状況を垣間みることができたのではないでしょうか。


そんな盆栽美術館についてはこちら(さいたま市大宮盆栽美術館)

依田さんが執筆された書籍がありますので、こちらも是非ご覧下さい(Amazon)
『盆栽の誕生』

『近代の「美術」と茶の湯 言葉と人とモノ』(平成25年度 茶道文化学術奨励賞)



それでは。

2014年8月28日木曜日

芸術表象論特講#14

こんにちは。急に肌寒くなって、あの暑い日はどこへ行ってしまったのでしょうか・・・。
7月23日におこなわれました、「芸術表象論特講」14回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、アーティストで本学准教授の大森悟先生でした。



大森先生は、洋画専攻の先生です。
これまでの作品を中心に、お話してくださいました。

小さい頃にオタマジャクシをこっそり飼育しようとして、冷凍庫に隠していたところ凍ってしまった。しかし取り出し解凍されると、泳ぎだしたそうです。どうやら、仮死状態になっていたようでした。もしかして、凍らせたりすると、ずっと生きながらえるのかな・・・と思ったそうです。
そんなエピソードから始まったレクチャーですが、これは、後に作品と関連していました。
冷凍庫の中に桜の花と青い鳥が冷凍保存され、照明で照らされています。「桜の花」は、別の作品にも使われているモチーフです。
桜は鑑賞の仕方が、他の花などの植物とは違っているとおっしゃいました。普段、花とかを見る場合には、少し離れたり横から見たりします。しかし、桜は不思議と下に入り込んで見る。見ているのは桜だけではなく、その後ろに広がる空も見ています。昼間だと青空で逆行になり花がかげるが、夜になると花はちょっとずつ白く感じるときもある。またあるとき、ふと桜が5枚の花びらをつけたまま、ぐるぐると回転しながら落ちてきた。どうも鳥がついばんだために落ちたようですが、それを見て、その形が面白いなと思い、花びらを収集して押花を作り始めます。結構しつこく作っていると、今度は量が欲しくなる。しかし収集している数では間に合わないので、夜に取りに行くようになります。暗いなかで収集していると、暗い地面に桜が浮いているように見え、それはまるで水面に漂う花のように見えたそうです。空を背景にした状況と地面のそれぞれの暗さに浮かぶ桜の状況が対になり、垂直の不思議な感覚に襲われたそうです。これらのことがヒントになり、作品の制作に影響していきます。

もうひとつ、作品に影響したことがありました。それは、大森先生の身内が亡くなったことでした。亡くなられた方に対して作品を見せようとして制作してきたことに気づいたため、作品を作る目的がなくなってしまい、どうしたらいいのか、わからなくなってしまったそうでした。しかし、絵を描くことで助けられたのだそうです。

また昨年は、上海にある女子美のギャラリーで展示をしたそうです。
その時は、現地で調達した梱包材(プチプチ)を繋ぎ合わせスクリーンのようにし、そこにグリーンレーザー水平器からの光を照射しました。梱包材は、もともとは日本で提供してもらったものを持って行くつもりでいたそうですが、それが叶わず、やむを得ずに現地調達したそうです。中国の梱包材は日本のものとは違って、空気が入っている部分が柔らかく、一度きりの使用にしか耐えられないものでした。繋ぎ合わせた梱包材は風にゆらされ、照射された光が波のように動きます。作品を写真で見せてくださいましたが、写真ではグリーンの線状のものが会場にあるように写っているのですが、実際には梱包材の空気の部分が一つひとつキラキラ光っていたそうです。とても不思議な空間になっており、1時間くらいずーっと見ている人もいたそうです。

グリーンレーザー水平器の他の作品としては、同じく昨年、銀座のギャラリーで開催されたものがあります。ギャラリーの少し高めの位置に、鏡を同じ間隔で並べていき、その鏡にグリーンレーザーを照射します。一見すると、ぐるーっとグリーンの線に囲まれているようになるそうです。どうなっているのかと鏡を覗き込もうとすると、向こう側にも鏡がありそれが映って見えます。さらに、光源がわからないように、光の中に埋もれるかのように計算して設置してあるために、どこから光が来ているのかわからない。それ以外に何もない、けれど何かあるということを感じる空間になっているそうです。大森先生は、星の輝きを見ていることと同じことを再現しており、光は私たちに見えるまでに時間のずれがあるということを体験する空間にしている。今と過去と未来を繋いでいる、時間の問題を表現されているとおっしゃっていました。

他のグリーンレーザーの作品や、博士課程の修了制作も見せていただきました。
普段、特に洋画専攻以外の学生は先生の作品などに触れる機会がすくないため、新鮮だっとと思います。大森先生の作品は空間そのものも作品のひとつであることから、次回展示があるときにはこのレクチャーを思い出すと、より先生がおっしゃっていたことが深まるのではないでしょうか。


ここから、作品の一部を映像で見ることができます。

大森先生のレクチャーをもちまして、前期は終了致しました。次回は後期、9月に入ってからとなります。それでは。

芸術表象論特講#13

こんにちは。大学は、短い夏休みの真っ只中です。
7月16日におこなわれました、「芸術表象論特講」13回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、演劇ユニットの二十二会でした。

▲左から渡辺さん、遠藤さん

二十二会は、遠藤麻衣さんと渡辺美帆子さんによる演劇ユニットです。昨年の春頃から活動を始めました。

遠藤さんは、東京藝術大学の学部時代は油画専攻に所属し、大学院では美術研究科壁画第一中村政人研究室に所属されていました。大学1年生の時から先端芸術表現科の同級生たちと一緒に、劇団200億を立ち上げました。学部を卒業して大学院へ進学したころから、個人制作していたものがパフォーマンスの形態へ変化したそうです。遠藤さんが演技を始めたのは、演技をするというのは、演技をしようとしている対象の人に自分が近づく行為であり、その人の気持ちなどを外から見るのではなく、その人の内側に入って行って親密になりたい・・・。そういうところからきているとおっしゃっていました。大学院を修了し、渡辺さんとこの演劇ユニットを立ち上げました。

渡辺さんは、日本大学芸術学部演劇学科演出コースを卒業されています。翻訳劇を中心におこなってきていたある日、台本を使わなくても、今、私たちが暮らしている私たちの声を演劇として舞台にあげるにはどうしたらいいのか、と考えるようになり、そこから翻訳劇ではない演劇の形を模索します。そして考えた作品に出演したのが、遠藤さんでした。
このことがきっかけで、2人は二十二会を結成することになります。
具体的には、2013年3月くらいにあったフェスティバル東京の公演プログラムの募集に出してみようというのが、結成のきっかけなんだそうです。一次審査は通過しましたが、最終審査で惜しくも落選してしまったとのことです。

同じ2013年、BankARTのレジデンスプログラム企画「Artist in Residence OPEN SUTUDIO 2013」に参加し、その成果として《目に殴られた》という作品を公開しました。この作品は、お客さん1人のための演劇作品となっており、役者がいるけれど見ることが出来ない・・・いわゆる演劇作品というものではなかったそうです。この作品は、演劇を鑑賞する構造の中で、視野や視覚というものが自覚的であったり無自覚的であったり、どういうことになっているのか、ということをそこだけ抜き出して見てみたいと思ったのが動機なんだそうです。渡辺さんは、演劇を見に行ったときにどうしてもつまらない作品に出会ってしまったとき、楽しく見るコツを編み出しました。それは、俳優の膝から下しか見ないようにすることです。そうすることで、どんなにつまらないお芝居であっても楽しく感じられるようになるのだとか。その経験も、《目に殴られた》の作品を作る際に含まれたそうです。

《へんなうごきサイファー》は3月に開催された「北千住フライングオーケストラ 縁日」にて上演された作品です。これは、教室で実演していただきました。2人が、自身の体のいたるところに大小の鏡をテープで貼付けています。そして、それぞれが互いの鏡に写ろうと様々な動きをします。二十二会の2人がおこなった後、学生たちも持参した鏡を体に貼付けてやってみました。

二十二会は結成以後、お客さんに参加してもらう作品が多く、演劇はお客さんに見てもらうものが多いものとされながら、そういう作品を作ってきていません。こうしたとき、お客さんに見てもらえる作品は何だろうと考えたとき、ずっと見ていられる、見応えのある体とは何だろうと考えたそうです。今は物理的に体には外圧がかかっていて、そして時間軸の中である切り取られた部分だけをお客さんに開示されるのだけれど、そのせいで切り取られた前後の文脈はわからなくなっている。そのわからない前後の文脈に想像力が働く状態が、見応えのある状態になるのではないかと、おっしゃっていました。

今後は、鏡を使い、ダンスの作品や見応えのある体についても考えていきたいとのことでした。

最後に、「違う人の化粧品を使ってみる」というワークショップを実施しました。事前に学生たちには、自分が日頃使っている化粧品を持ってくるという指示が出ていました。6名の学生たちが2人ペアになって、互いの化粧品で化粧をするということをしてもらいました。周りにいた学生にも遠藤さんがペアを決めてやってもらいました。もちろん、二十二会の2人も参加していました。



演劇といえば、役者がいて彼らが演じているのを客席で見るスタイルを思いがちです。しかし、二十二会の2人がおこなっているのは、そうしたスタイルではない演劇でした。表現をするということは、固定された何かだけではなく、疑問を持って新しく作り出すことも大切であることを、学生たちは感じ取ったのではないでしょうか。今度は、実際に作品を見に行って欲しいと思います。


二十二会のイベントなどは、こちらから確認できます。
二十二会Facebook

遠藤麻衣さんHP

渡辺美帆子さんHP


それでは。

2014年7月28日月曜日

芸術表象論特講#12

こんにちは。暑い毎日で、水分補給に気をつけています。
7月9日におこなわれました、「芸術表象論特講」12回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、美術制作家の市川裕司さんでした。



市川さんは、多摩美術大学大学院日本画領域を修了された後、そのまま副手・助手として6年間日本画研究室に勤務されていました。今回のレクチャーでは、学生の頃の作品から、1年間行っていた海外研修についてお話ししてくださいました。
現在も埼玉県に住んでいる市川さん。学生の頃は、大学まで2時間かけて通学されていたそうです。学生の頃の作品には、通学途中で見る景観を作品に取り入れることが多かったようでした。始めは写生的な表現でしたが、4年生頃になると次第に抽象性が増し、卒業制作は抽象であることを強く自覚して制作されたそうです。画面を構成する要素を物理的な質に置き換えるという試みから、材質に対する興味が急速に深まっていきます。

大学院へ進学し、徐々に現在の作風に近づいていきます。
助手として勤務されていた頃、コバヤシ画廊で展示がしたいために、10mある作品を制作。業務が終了した後、校内の一部を利用して写真を撮影。10時間かけて撮影したため、終わる頃には朝になっていたそうです。コバヤシ画廊でプレゼンテーションし、念願の展示をおこなったそうですが、このときに展示した作品はまた別に制作したものであり、校内で撮影した作品は写真撮影のみで、実際にどこかで展示することはしなかったそうです。

2012年、五島記念文化賞美術新人賞を受賞し、同年729日から、ドイツのデュッセルドルフへ1年間、五島記念文化財団の助成を得て研修に行っていました。レクチャーでは滞在中の日記をもとに、いろいろとお話してくださいました。

市川さんはこれまで旅行など含め国外へ渡った経験が全くなく、この研修が初めてであり、そのまま長期滞在することになったそうです。渡航のスケジュールは自分で決められるようになっており、また受け入れ先も自分で決めることが出来るそうです。市川さんがドイツを選んだ理由としては、制作している作品は日本画を経緯に持っていながら、現代美術にも足を踏み入れている。海外に行くならば現代美術が元気な場所が良いと思い、いろいろ調べてドイツに決めたそうです。日本で作り上げてきたあらゆるしがらみを一度断ち、今までの自分とはまったく違う組み立て方が出来るという場所でスタートしたいとも思っていたそうです。
始めの1ヶ月は、ドイツ語の勉強のために語学学校の寮に滞在しました。日本では蓄積のあった英語をのばすことに徹し、ドイツ語の勉強はあまりしていなかったそうです。
最初に制作したのは、ビールの王冠をビール瓶の中に封入した取り組みでした。ドイツはビール大国です。日本では缶ビールですが、ドイツは瓶が主流のようで、リサイクルのために瓶をお店に持って行くと、換金してくれるシステムがあります。しかし、瓶の蓋として付いている王冠はそういったリサイクルの対象から外れているため、道のいたるところに落ちているそうです。瓶を大事にする一方で、ぞんざいに扱われるこの王冠に対して、文化の見落しを感じたそうです。そしてこれがひとつのアートにならないかと拾い集めたところから制作に至ったとのことでした。

国外に渡ることにあたって市川さんの中には、境界線への問題意識がありました。日本は島国なので、他国と地続きになっておらず隔離されたイメージがあります。しかし、ドイツなど大陸に属する国では、国同士を隔てた境界線がずっと身近に存在しており、他人(他国)との距離がどうあるのか注目していました。
そして市川さんはドイツに来た当日、夜明け前に滞在した部屋の窓に一枚の箔を押すことで自身と外界の境界線を意識させるという行為を、渡航におけるセレモニーとしておこないました。


それ以後も、滞在中は境界線というテーマを市川さんは意識し続けます。
その問題のひとつとして、ドイツの多くの家屋に使用されて、自然と人の生活を仕切るレンガに着目します。ある日、公園でレンガを粉砕する作業をおこなっていたところ、警察の尋問にあってしまったそうです。どうも作業をしていた場所が、よく麻薬の取引に使用されている場所であって、白昼堂々と粉体を作っている様に疑いをかけられたらしいのです。その時事情を知らなかった市川さんは、一生懸命に自分たちはアーティストでこうして絵の具を作っているんだ・・・というふうに説明して、なんとか納得してもらったそうでした。結局、30種類の顔料を作り上げたそうです。


学生時代からどう表現が変わっていったのか、とても丁寧にお話していただきました。また、助成を得て滞在した研修の様子も、当時の写真を踏まえて詳しくお話していただきました。研修に行くまで国外へ行ったことがなかったのに、いきなりドイツへ長期滞在するのは、すごいことだと驚きました。1人の表現者が、どのようにその表現に変化がおきたのか、学生にとって、とても刺激になったのではないでしょうか。


市川さんの作品などは、こちらから見ることができます。


それでは。