2013年12月27日金曜日

芸術表象論特講#16

こんにちは。あんなに色づいていた葉っぱもみかけなくなり、毎日、寒さと戦っています。
12月18日におこなわれました、「芸術表象論特講」16回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、陶芸家の井上雅之さんでした。




井上さんの学生時代の作品から現在の作品まで、作品のスライドを見ながらお話ししていただきました。

井上さんは陶芸家であり多摩美術大学工芸学科の教授でもありますが、はじめから陶芸ではなく、多摩美術大学の絵画科油画専攻に入学(その後、多摩美術大学大学院美術研究科を修了)しました。大学に入れば何か見つかると思い、とにかく絵画科に浪人して入学。入ったはいいものの、“何か”が見つからず悶々とした日々を過ごしていたそうです。
大学3年生のとき、別に実習費を払えば使わせてもらえる制度を利用して、中村錦平先生の陶芸講座でうつわなどの焼き物を作っていたそうです。
何となく美術ということで入学した絵画科だったが、モノを見て描くのは好きでもそうではないのはちょっと・・・。と思い、絵は卒業したら描かないだろうと考えていたそうです。そんな時に出会った、ろくろは、ぐるぐる回っている土に手を当てていると形が出来てくることからこれは、一生続けられると思ったそうです。ろくろで茶碗を作り続け、結局は4年生の時の卒業制作も器物型の作品を提出したそうです。

しかし大学院へ進学すると、自分が何も作っていないことに気がついたそうです。「何やってるんですか」と問われた時、茶碗を作っていると言ってしまえば、それ以上問われることはありません。そのために、自分でも何をしているのか自らにも問わず、感覚で創出したものを抽象化していたため、見てはいるけどやっていることが理解出来ていない状況になっていたといいます。

そのうち、制作したものにヒビが入ったり割れるのを見てその断面の放つ鋭い表情に目を奪われ、違う見方が出来ることを発見し、院生の2年間で150点も作ったそうです。
それまで、自分と作品との関係を見つけることをしていたが、自分以外の人と作品の関係を見つけることも大事だと思うようになったそうです。自分が面白いと思ったものは、人に見せていいんだということにも気がついてきたといいます。

学生の間に、井上さんが表現する方法として陶芸を用いるようになりましたが、実は絵画から陶芸に移るときに、「一段下がる」と勝手に思っていたそうです。井上さんの考えとしては、ルネサンス期からある美術のヒエラルキーとして、絵画(油画)を頂点とし、彫刻という階層があるので、陶芸は下の方だから、「一段下がる」ということを思ったといいます。そして、「伝統」という言葉も勝手に背中について来ているような気がしていたとも。さらにそのときは、彫刻の人とは一緒の土俵に上がることは出来ないのだともおっしゃっていました。しかし、それが思い違いだったことを後にさまざまなジャンルの作家と共に展覧会に出品することで分かったそうです。

それまで小さい作品を作っていましたが、大学院を修了してから作品が大きくなっていきます。大きさが変わっていくので、表面の着色も変わっていったそうです。

そうして作品を作り続け工夫を重ねていくうちに部品の組み合わせが多くなり、だんだんと煮詰まってくるようになり、また「自分のものは」と悶々とする時期があったそうです。

いっそのこと、手に負えないような大きさのものを作ってみようと思いつき、1つの大きなパーツをつくり、バラバラにして焼いてまた戻すという方法で作りはじめたそうです。今までやっていた方法から、違う方法を用いるのはとても大変なことです。

近年は、蜂の巣のような感じでブロックを積んでいくという手法を使い作品を制作しているそうです。これは1つのブロックを作って、また隣のブロックを作るという積み重ねをしながら造形しています。人がやっている行為が蓄積されていくと力になるとおっしゃっていました。また、構造を重視し、それまでは作品の形態が形の一部に見えたりしたが、最近はもっと完結したものを見せてもいいのではないかと思っているそうです。自由度が増すようにやっているといいます。それぞれのブロックは自分の手で撫でて作っている形なので、痕跡をわざと残すような仕事にしているそうです。1つひとつのブロックをつくる上で、素材(粘土)と形とのやり取りをおこない、それが蓄積されているので、見た人が面白いと言うのではないかと井上さんは考えているそうです。

井上さんの制作の基本は、自分が出来ることではどのようなことで、何が面白いかということであり、目の前にある自分が作れるもので何なのか。例えば粘土をブロック状にし蓄積していくように、この素材でどういうことができるのか、焼き物で何が出来るのかというのかというがきっかけになっているので、特定の具体物のモチーフがあるのではなく、形を探しながら形作っていくのだそうです。


学生時代の話から、現在の作品がどのように変化をたどってきたのか。井上さんにとって作品を作ること、それに向き合うことはどういうことなのか、そうしたことに少し触れられた気がしました。学生は、陶芸という手法を用いて作品を創造することが、井上さんにとって面白いことであることなのだと感じたのではないでしょうか。



井上さんの作品はここで見ることができます。



それでは。

2013年12月13日金曜日

授業紹介:井上ゼミ

こんにちは。いちょうの葉が落ちて、道を黄金色に染めています。
今回は、3年生の「芸術表象IDゼミ」の授業の様子を学生にレポートしてもらうことにしました。

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こんにちは。
124日に、井上文雄さんのゼミで河口遥さんをゲストにお迎えして授業がおこなわれました。その様子を榎本(芸術表象専攻3年)がお伝えします。

作家活動をおこなっている河口さんは、武蔵野美術大学近くにある「22:00画廊(じゅうじがろう)」のオーナーでもあります。今回は、その「22:00画廊」についてのエピソードを中心にお話ししていただきました。



授業の前にゼミの学生たちで河口さんをおもてなししたいと話し合っていたので、作家・田中功起さんの「コミューナル・ティー・ドリンク」(参加者で持ち寄った沢山のティーパッグをひとつのやかんに入れて飲むイベント)を模したお茶会をしました。




22:00画廊は、去年から始めたばかりの古民家を利用したアートスペースです。完全な現状復帰をおこなわないため、展覧会を開催する度に、作家・作品によって形を変えていく少し変わった画廊となっています。こうした運営形態について「家(画廊)に経験させること自体も、作家さんに楽しんでほしい」とおっしゃっていました。
また、河口さん自身は「個人史」と「身体性」に興味があり、そのことは制作にも関わっているといいます。形を変えていくという画廊への考え方と制作に共通点があるのだと興味深く感じました。

他にも、学生側から出た制作にまつわる沢山の疑問に対して、一緒に考え議論もしました。その中でも「制作するということは、自己満足な行為なのか?」というテーマが特に印象に残っています。これは、私も常に疑問に感じていることであり、「何のために制作しているのだろう」と思ってしまうことも多々あるのです。河口さんは「私は制作が自己満足な行為だとは思ったことがない」とおっしゃっていました。



お話を聞くだけではなく、多くのテーマを出し合い深く対話することができたため、あっという間に授業時間が過ぎていました。

22:00画廊」では現在も個展がおこなわれているので、私も足を運んでみたいと思います。


22:00画廊」についてはこちらをご覧下さい。



それでは。

2013年12月4日水曜日

芸術表象論特講#15

こんにちは。朝や夜がすごく寒く、日中は暖かいかな・・・と思いきや日陰になっているところは朝や夜と同じくらい寒いと感じています。
11月27日におこなわれました、「芸術表象論特講」15回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、美術家の原田裕規さんでした。



原田さんは、山口県で生まれ広島県で育ちました。16歳の頃から広島・東京を中心に作家活動を開始し、美術系コースのある高校へ進学。その後、武蔵野美術大学芸術文化学科へ進学し、在学中にインタビュー・アーカイヴサイト「Culture Power」の運営に携わります。大学卒業後は、東京藝術大学大学院修士課程先端表現専攻へ進学。今年より『美術手帖』に展覧会レビューや中原佑介連載などの執筆を始めました。現在は、大学院に在籍しながら、フリーランスの立場で展覧会の企画や自作の制作、執筆活動などをおこなっているそうです。

レクチャーでは、原田さんが編著され今年フィルムアート社から発行された『ラッセンとは何だったのか?』を中心にお話していただきました。

クリスチャン・リース・ラッセンは、色鮮やかな海やイルカをモチーフに描いた作風で知られる作品を発表しています。おそらく、誰しも一度は見たことがあると思います。
2012年、原田さんは共同企画として「ラッセン展」(CASHI)をおこないました。この展示では、「公募団体展」「インテリア・アート」「現代美術」といった3つの領域から作家を選び作品を展示したそうです。
地方に住んでいると、美術作品、特に現代美術を見る機会が都市部に住んでいる人よりもとても少ない。つまり、作品との出会い方に限りが出てしまうそうです。例えば、デパートなどの百貨店の8階にあるギャラリーで、草間弥生と天野喜孝と平山郁夫と奈良美の作品が並んでいるという状況で作品と出会うことになる。原田さんはそういう状況から、美術系の高校へ進学することで、次第に公募展の作家たちを知ってゆくようになったそうです。こうした体験を踏まえ、「美術」には大きく「公募団体展」「インテリア・アート」「現代美術」という3つの領域によって受容されているのではないかと考えたそうです。

可能な限り、ラッセンの作品をニュートラルに語ったとしても、むしろ、ニュートラルであればあるほど、語りそのものが現代美術文脈の評価とそして同時に現代美術批判というふうに転換する可能性もはらんでいる。言い換えれば、真にニュートラルな「作品分析あるいは研究」は本当に可能なのか、という疑問をラッセン本は投げ掛けています。ラッセンの場合、ニュートラルの語りであればあるほど、作品分析がいつの間にか「制度批判」にさらされる。ニュートラルになっていけば「作品分析」になり、パフォーマティブになれば「制度批判」になる。重要なのは、「作品分析」と「制度批判」の間にあるものではないか。作品を分析し、制度などの様々なものから切り離して作品だけを見るということは、ある意味、一側面からしか導きだすことしか出来ない。しかし、コンテクストの中で読み込んでゆくには不十分となる。もしかしたら、この中間に作品の価値らしきものがあるのではないか、こうしたことを「ラッセン展」では感じ取ったそうです。
求められる語り口は、ベタな視点から見て、いかにラッセンの作品が良いのかということと、メタな視点から見て、いかに彼が優れた制度批判者であるかを提示すること。この二つの全く違う語り口を接近させて行き、同時に一つの語りで二つのことを語るようにすることで、作品の価値について切り込んで行く方法になるのではないか。必ずしもラッセンだけではなく、このことは、他の作家にも当てはまることでもあります。そしてベタとメタの二つを融合させると、重なった領域がユーモアになる現象が起きる。二種類の価値が同居することで、ユーモラスに見えてしまう。それは、本気で語っているのかそれともネタで語っているのか、分からない状況に陥るということが、実は価値の探索に繋がっていくのではないか、ともおっしゃっていました。

「ラッセン展」と同じ位置として考えているという「心霊写真展」(22:00画廊)。この展示も昨年企画されました。見えないイメージは、人に対して影響を与えてしまう。また、優れた作品は時として作者を離れてしまうことがある。例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》なんかがそうかもしれません。作品が事物として動きだし、人々に対して想像力え与える現象がしばしばある、そうしたことを踏まえ、展覧会では次の三つのポイントを設定したそうです。
一、作者が不在であること。
(心霊写真が作者の不在によって準備されているのではないかということから。)
二、優れた作品が作者の固有名詞を離れて、人々に影響を与える。
(心霊写真に作者が認められてしまった瞬間、それは心霊写真ではなくなるから。)
三、事物を投げかける視点と鑑賞する視点、両者の区別がつかないような展示にしている。
この展覧会から、ラッセンの作品から内面性が見えてこないことについて、繋がっていくのではないかと思ったそうです。


ラッセンの制作行程は謎に包まれているそうです。原田さんの推測では、おそらく現在ではデスクトップを使いデータ上で作業、それを出力して一部加筆するという方法なのではないか。そして、工房で集団によって製作されている可能性が極めて高いそうです。ラッセンがテキストを書いたりする環境がないようにし、作者と作品は遠ざけられているのではないかともおっしゃっていました。そして、ラッセンを認めるとか認めないとかいう問題の中核にある問題として、果たしてこのような作品が鑑賞の対象になりうるのでしょうか。

これまでラッセンの作品は、美術界の中では語られることはありませんでした。それは、上記したような問題をはらんでいたため、美術界では嫌われている存在だったからです。原田さんは、ラッセンの作品はどうも、嫌悪感を与える存在として捉えられるところがあると言います。そしてこのことは、美術家の中ザワヒデキが提示した「ヒロ・ヤマガタ問題」とも関係しています。

昨年度、大学を卒業され、その際に提出した卒業論文「アール・ローラン論――セザンヌ作品のダイアグラム分析をめぐって」についてもお話してくださいました。

原田さんは、芸術とは何か、美術とは何か、それだけではなく何が「良い表現/美術」でその「良い表現/美術」を決定するものは何か、その仕組みが気になるとおっしゃっていました。美術に関わっている全ての人が、このことについて一度は考えたことがあるのではないでしょうか。そして、その結論は果たしてあるのか・・・・。

24歳と若く、学生たちととても年が近い原田さん。これまで、誰も取り上げてこなかったラッセンを糸口に、アートとは何なのかということを、様々な視点からアプローチされている姿は、学生たちにとってリアリティがあり、刺激にもなったと思います。



レクチャーを聞いた学生、そして更に知りたい方はぜひ読んでみてください。



『ラッセンとは何だったのか? 消費アートを越えた「先」』(フィルムアート社)



それでは。

2013年11月26日火曜日

芸術表象論特講#14

こんにちは。寒くなり、近くの公園の葉っぱが色づいていてとても奇麗です。
11月20日におこなわれました、「芸術表象論特講」14回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、アーティストの白川昌生さんでした。



白川さんは、ドイツのデュッセルドルフ芸術アカデミーで学んだ後、1983年に日本へ帰国しました。出身は北九州なのですが、帰国後は群馬の前橋にずっと住んでいるそうです。
帰国されてからは、留学先で知り合った方の紹介で、草津温泉の外れ標高1200mにある私立の中学・高校(様々な事情で学校へ行けなくなっている生徒が就学する全寮制、普通科の学校)の美術を担当していたそうです。
もともと大都会に住むつもりはなく、車に作品を積んで東京の画廊で発表し、オープニングの夕方まで在廊してその後群馬へ帰り、搬出作業のときにまたやって来るということをしていたそうです。画廊に滞在している時間が少ないため、人に会えず知り合いも少なかったといいます。

その頃の作品は、草津の山の中を回っているときに建築資材の廃材を発見し、その持ち主である業者さんに交渉して、タダで貰い受けたのを使用していたそうです。

その後、前橋のデザイン系専攻学校で働かないかと誘われて転職。その専門学校では敷地内に美術館を持っており、そこでも展示をおこなっていたそうです。

そのうち、アートフロントの北川フラム先生より声をかけられて、「ファーレ立川」(1994)や「大地の芸術祭 越後妻有トリエンナーレ2000」に彫刻作品を展示しています。

草津の六合村の学校で働いているときの話で、面白いことがあったそうです。村の集まりでお酒を飲んで村の人たちといろいろ話をしているときに、あまりしたくないが留学中のことを聞かれて少し話したそうです。そうしたら、自分も昔ドイツに行っていたという人が偶然いました。その人がいたのは、アートプロジェクトが成功したことで有名となった、ゲルゼンキルヒェンという街で、1970年代以降に国がお金をつぎ込んでツオフェライン炭鉱を再生させデザイン学校などの施設を作り、地域の活性化をはかった所でした。
その人がなぜドイツにいたのか。昔、草津では鉄鉱石が取れてそのための鉄道が通っており、そこで村の人が働いていていました。日露戦争や日清戦争などの戦いで鉄が必要となり、草津から鉄鉱石を採掘していたが、そのうち中国から輸入されるようになったので働くことが出来なくなった。国は保証として別の場所で採掘すれば良いとし、北海道の旭川炭坑を紹介。そこが閉山すると、ドイツへ斡旋してくれるということになり、60年代の始め頃まで外国人労働者として働いていたそうです。
白川さんはこの話を聞いて、山の中での出来事が世界とつながっている、ということに驚き、決して地方にいるからといって外されているわけではなく、自分が意識してテーマを探し出せば地域の中から、いろいろなテーマを掘り出すことが出来るのではないかという気持ちになったそうです。

80年代~90年代くらいは国内で展覧会をし、グループ展にも呼ばれていたそうです。どの会場へ行っても割と抽象が多く、話すと絵画にとって大切なのはマテリアルであるというような文学的な要素を省いて幾何学的なものを作る傾向だったそうです。みんな真剣に同じ話をしていることに、すごく違和感があったとのことです。ドイツにいた頃は、いろいろな人達がおり、アートの普遍的な話をせずに自分の話をする。自分がどう感じるかという話をまずする。自分たちのでっち上げたような理論を展開しているので、日本はみんな優等生みたいに同じことしか言わなかったそうです。

いくつか作品のスライドを見せていただき、作品についてもお話ししてくださいました。

専門学校には1999年まで勤めていました。辞めたのではなく、バブルがはじけて倒産したそうです。その頃は倉庫を持っていない為に学校に作品を保管していたため、倒産時に土地の所有権が銀行へ移ったことで、大きな作品は解体してトラック4回往復して焼却処分してしまったそうです。

身軽になってまたゼロからの出発になった頃、《無人駅で焼きそば》(2000)を発表します。
昔、桐生から前橋まで木を運ぶために電車が通っており、そのあとが今でも使われています。地域の赤字路線で無人駅。こういう所だったら、無料で展示しても誰にも文句を言われないのではないか。白川さんはそう思いついて、当時インターネットが普及し始めた頃でもあったので、この様子を公開し、わざわざ画廊などのスペースを借りなくても全国にある無人駅を利用すればやっていけるというメッセージを送っていたそうです。ちなみに"焼きそば"なのは、ペヤングソース焼きそばが地元で作られていおり、地元で作られているものを地元で消費することで、自分も地元でやっているんだという意志表示が込められているそうです。

その後、無人駅のはインターネットで公開しているうちに、NPOの人達(前橋でアートカフェを開いている人達)が参加したいと申し出たので、メンバーを近くに住んでいる人からも募集して、ゲリラでそうめん流しを開催したそうです。見せていただいた写真には、プラットフォームで流しそうめんをしている人達と、電車の窓から顔を出して怒っている車掌さんが写っていました。

他にも、群馬県が関東圏で有数のウインタースポーツの場所ということから、スノーボーをする《フィールドキャラバン計画2007》や、白川さんが自作した前橋の町おこしをする「木馬祭り」という物語を実際に開催した様子、「水と土の芸術祭」(2012)に出品した地元の人と一緒に作った《沼垂ラジオ》(このラジオはそのまま地元の人々に引き継がれているそうです)についてもお話ししていただきました。

ドイツで学び、群馬という場所を拠点として活動する白川さん。彫刻作品や人と関わることで生まれる作品を見せていただき、学生達のアートの概念が変化してゆくのではないかと思います。
自分で采配を決められないものがあり、偶然の出会いや出来事を受け入れながら、そういうなかでやるべきことをって行かなくてはならないとおっしゃった白川さんの言葉が、印象的でした。

白川さんは来年の3月に個展を開催するそうです。
詳しい情報は、アーツ前橋のHPに掲載されると思いますので、ご確認ください。

アーツ前橋


それでは。

2013年11月19日火曜日

芸術表象論特別講#13

こんにちは。学祭が終わり、秋が来たなぁ~と思っていたら、急に寒くなって厚手のコートを引っ張りだしてきました。
11月13日におこなわれました、「芸術表象論特講」13回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、日本画家の間島秀徳さんでした。



間島さんのこれまでの制作について、お話していただきました。
間島さんは、茨城県かすみがうら市に20年前からアトリエを構え、10年ほど前に住居も移したそうです。最初に見せてくださった、制作風景の映像には、豊かな自然に囲まれた場所で制作されていました。
日本画というと、畳(ではない場合もあると思いますが)の上で作品を寝かせた状態で描く、というイメージがあります。しかし、映像の中での間島さんは、屋外のコンクリートの上に少し斜めにしたりして制作していました。
技法は日本画的なのを用いているとおっしゃっていましたが、水と大理石(既成の粒子の異なるものを使用し、砂や溶岩などは採取したものを砕いて使用)と樹脂膠とまぜた顔料を使用して描いています。それも、水も顔料もお皿に乗せて・・・・というスタイルではなく、とにかく大量に使用しています。ちょっとっ本格的な家庭菜園をおこなう際に使用するような農薬散布機のようなものを使用して水を画面全体にまき、水で膜が出来るくらいびしょびしょに濡らします。ボールに大量の顔料を入れ、ドリッピングなどを用いながら描いてゆきます。水の流動性に合わせて、画面そのものを動かしながら重力を活かした技法を用いています。 
顔料はお店で売っているようなものではなく、原材料を取り寄せて作っているそうです。通常の膠ではなく、樹脂膠を使用していることについて、学生からも質問がありました。これは、顔料の白さを強調したいと思うようになってきたときに、膠の黄ばみや季節てきな変化などが気になりだし、着色がない樹脂製のものを使用するようになったと言います。試行錯誤し、画材屋さんとも相談してこの方法にたどり着いたそうです。

水の痕跡がそのまま作品になっていくような、そういうイメージがあるそうです。こうしてスライドなどの画像ではわからないのですが、実物は結構ぼこぼこした表面になっているそうです。
見せていただいた映像は、京都の清水寺での展示の様子でした。展示されたときに、たまたま知り合いのダンサーの方がいらっしゃったそうで、作品の前で即興で踊ってもらった様子も映っていました。

間島さんの作品のイメージは水です。このことについて、学生からも質問がありました。自身の中の水のイメージではなく、大学に入り日本画的な素材に関わるようになり、いろいろ模索をし試してみたところから浮かび上がってきたのが水のようなものだった、ということのようです。間島さんが学生の頃は、何でもありではないという時代で、自分が好きな表現を実現できるというよりも、いろいろなものが否定的に捉えられていた、そんな空気も持った時代でもあったそうです。そのため、描きたいものから〜何が重要なのか〜描かざるをえないものへという経緯があったそうです。

水との関わりというのは、自分の意思を直接伝える方法に限界を感じていたこともあり、水との出会いが、水と共に作る可能性にかけたいと思う様になったとのことです。水の力は、コントロールしてい描いている部分もあるが、アクシデントというか偶発的なことで自然に与えられる力の両方を利用して、制作しているそうです。

近年の作品から初期の作品、墨などの様々な技法を用いた作品をスライドで見せていただきました。

日本美術の発展に大きく貢献した岡倉天心が思索していたとされる「五浦の六角堂」。東日本大震災の際に津波により甚大な被害を受けました(現在は再建されています)。間島さんは、震災前にその六角堂に作品を展示したことがあったそうです。そのときの写真をスライドで見せていただきましたが、六角堂自体が海のすぐ近くにあるため、間島さんの作品がその海の一部のように建物の中にぽっかりとあり、とても不思議な感じがしました。ライトを当てているわけではなく、自然光を使用しているようなので、それがまた作品に影響を及ぼしているのかもしれません。

間島さんの作品は、清水寺、二条城、お茶室、六角堂、演劇用舞台などといったいわゆる美術館や画廊、ギャラリーといった展示空間ではない場所でおこなわれていました。そうした場所でおこなうにあたって、ライトではなく自然光で見せるなどの工夫がされています。作品も平面だけではなく、大きな円柱状のものや、立方体のもの、天井といった形態に描かれています。日本画という枠にとらわれない作風は、ジャンルの違う制作作品と一緒に展示したり、ダンサーたちとのコラボレーションと多岐にわたっています。

冒頭でも記しましたが、日本画と言えば、少しかしこまって制作するようなイメージがあります。しかし、間島さんの制作や作品、展示の方法はそのイメージをがらっと変え、創造と表現は無限であることを感じました。学生たちにとっても、励みになったように思えます。

間島さんは、美学校にて「超・日本画ゼミ」という授業をおこなっています。
また、展覧会も開催中です。ぜひ一度、その目で躍動する水の作品をご覧になってください。

「超・日本画ゼミ」についてはこちら
美学校HP

開催中の個展についてはこちら
間島秀徳 Exhibition:Cosmic garden vol.2
11月7日(木)~20日(水)12:00~19:00(日曜休廊)
Art gallery閑々居(かんかんきょ)



それでは。

2013年10月25日金曜日

女子美祭はじまりました!!

こんにちは。台風がまた来ているようなので、心配です。
今年も女子美祭がはじまりました!!

ここでは、芸術表象専攻の展示を少し紹介します。


1号館5階

1年生:157教室
女子美に入学して、最初の女子美祭となります。「毛」をテーマとした学生それぞれの個人制作と、授業で制作したものを展示しています。



3年生:151教室
3年次になると、芸術表象専攻主要の先生2人以外の先生方によって開講される「IDゼミ」に所属します。今回は、丸橋伴晃先生のIDゼミに所属している学生の中から有志5名と、そのゼミ以外の1名の学生による展示となっています。

 ▲この看板が目印です
 ▲床にもアイコンが貼られています


4年生:155教室・廊下
今年、最後の参加となる4年生は、有志による3団体が展示をしています。
教室内では、2名の学生による「女の子の映画鑑賞 番外編 女の子の館」と、1名による「仮装OK!欲望研究会 美祭特別版」です。

 ▲「女の子の館」はピンクのかわいらしいお部屋が作
られており、この中でワークショップをおこないます。
 ▲「欲望研究会」は、ミジメデル神(中央にいる学生)
による美祭特別版のワークショップです。


廊下では、昨年から授業内で始まった「Café5Fの廊下」という活動の記録を紹介しています。
▲この看板が目印です。矢印の方向にカフェがあります。


12号館1階

2年生:1214教室
3学年とは離れた、芸術表象専攻が所有する実技教室にて、2年生は展示しています。
展示タイトルは「芸術表象とはなんぞや?!」です。
学生それぞれによる個人制作の作品展示と、「アート・プラクティス演習」という授業内で制作した作品を展示しています。

 ▲個人制作による展示
▲授業内でおこなったワークショップの作品展示


学年それぞれの展示の詳細に関しては、あえて書きません。是非、直接いらしてください。


それと・・・同じフロアで活動しています、美術教育専攻の学生さんたちの作品もあります。階段の装飾やエレベーター内の装飾も彼女によっておこなわれました。1号館1階部分から2階に上がる際の階段に、細かな装飾がなされていますので、見てください。(階段装飾の5階部分は、芸術表象の学生も展示しています。)


それでは、みなさまのお越しをお待ちしております。


女子美祭2013
杉並・相模原キャンパス同時開催

10月25日(金)〜 27日(日)
10:00~18:00 (展示は17:00まで)
※台風の影響により変更になる場合があります。お越しの際は、女子美HPでご確認ください。

女子美祭2013 相模原キャンパス版HP

女子美術大学HP


2013年10月17日木曜日

芸術表象論特講#12

こんにちは。今年は台風が多いですね。台風一過なのに肌寒い・・・と戸惑っています。
10月9日におこなわれました、「芸術表象論特講」12回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、NPO法人黄金町エリアマネジメントセンター事務局長の山野真悟さんでした。






黄金町は神奈川県横浜市中央区にある町です。戦後、京浜急行の高架下に住居をなくした人々が住み着きました。そこで生活するのに困窮していた人々は飲食店をはじめるようになり、そのうち女性がお客をとる「売春」行為がおこなわれるようになりました。いわゆる「青線」と呼ばれる地帯です。当時は日本人が中心でしたが、しだいにビジネスと化し、海外から女性を連れて来るケースや、不法滞在している外国人などによる売春行為がおこなわれるようになります。
1520平米ほどの2階建ての住居がいくつも並び、1件に2人の女性がいます。1階は飲み屋のようなスペースをしており、2階がそういうことをおこなうスペースとなっているようです。そして、外にひさし(テント)がついていると売春をしているという目印だそうです。20051月まではおこなわれていたそうですが、その後、警察による「バイバイ作戦」によって一斉摘発がおこなわれました。
黒澤明の「天国と地獄」という映画の中で、犯人役の山崎努が警察をまいて逃げるシーンに、当時の黄金町が出てきます。しかし、当時は売春の他にも、麻薬などの犯罪やそういったものの温床地帯であったため、撮影をおこなうことが非常に危険とされ、町並みをセットで再現して撮影されたそうです。そのセットは、当時の状況そのものを再現されていたといいます。

このような環境を深刻な問題としてとらえていた地域では、事態の改善をはかるために、地域住民による協議会が設立されます。協議会は行政・警察などと連携をもち、取り組みをはじめます。そのひとつが、2008年に開催されたアートを生かした新しい町づくりを目指す「黄金町バザール」でした。

山野さんは、福岡にて「ミュージアム・シティ・天神」というアートプロジェクトをおこなっており、黄金町バザールのため2007年にこちらへ来たそうです。

2008年に開催された「黄金町バザール」ですが、これが終わった後にどうするのかと地元の方々から言われたそうです。「黄金町バザール」を開催しているときは人が来るけど、それがないと人がいなくなってしまう。残って続けて欲しい・・・ということで、翌年にNPO法人黄金町エリアマネジメントセンターを設立し、毎年開催することになったそうです。現在スタッフは、山野さんを含めて13名です。

何でもそうですが、「黄金町バザール」はアートだけでは成立しません。大学(横浜市立大学)、地元住民の協議会、行政、警察が協力しています。他の町づくりと違うのは、警察がいるということです。警察という抑止力があることで、町づくりの活動が出来ます。それだけ、まだ危険な所でもあるということです。

「黄金町バザール」は、主に売春をおこなっていた店舗を利用しています。その店舗を市が借り受け、山野さんたちが管理をおこなうというシステムになっています。改修工事をした後にアーティストへ貸し出します。

アーティスト・イン・レジデンスもおこなっており、海外からアーティストを招聘し、こちらからも海外にアーティストを送るということもおこなっています。今年は、2人の日本人アーティストが台湾へ行っているそうです。

アーティストと作品についても、少し紹介していただきました。

また、昨年から「黄金町芸術学校」もはじめたそうです。これは山野さんが以前、福岡で1ヶ月間毎日夕方に開講するアートスクール「天神芸術学校」からきているそうです。その芸術学校を受講していたある学生が、芸術学校を修了した後に仕事を辞めて大学に入学したということがあったそうです。出来れば、そういう人の人生を変えてしまうような、そういうことを黄金町でもやってみたいという思いがあるとのことです。山野さんとしては、スタッフの人たちに本当は受講してもらいたいそうですが、なかなかそうはいっていないようです。アートマネジメント、建築、まちづくりの授業を中心に開講されているそうです。

今回は、「黄金町バザール」を中心にお話をしていただきました。横浜市はアートを通した「創造都市(クリエイティブシティ)」を掲げており、横浜トリエンナーレなどのアートイベントや施設の設立を積極的におこなってきています。黄金町を中心としたアート活動もその一環です。
しかし、アートに関する様々な団体がいて、いろいろなことをしているが、一緒にやっていこうという協調性がないという問題点も抱えているようです。
また、黄金町”バザール”という名前が災いしているのか、展覧会だと思われておらず、まちおこしだと思われていると山野さんはおっしゃっていました。そこには、それぞれが思うアートによる希望が入り組んでおり、複雑に絡み合っているのかもしれません。みんなが、アートに寄りかかりすぎていても、町はよくならず、あくまでも精神的な部分・・・これがおこなわれていればいいのですが、やはりどれだけの経済効果が起きるかという部分ばかりに、考えが向きがちとなっているようです。

学生にとっても、アートとまちづくり(おこし)という問題について考えてみるよいきっかけになったのではないでしょうか。


行ったことがある人も、まだ行っていない人も、ぜひ「黄金町バザール」を見てみてください。


黄金町バザールについて



それでは。

2013年10月2日水曜日

芸術表象論特講#11


こんにちは。寒くなってきたので、そろそろ衣替えかな・・・とか思う日々です。
9月25日におこなわれました、「芸術表象論特講」11回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、アーティストであり非建築科のヴィヴィアン佐藤さんでした。



花柄のワンピース姿で登場したヴィヴィアンさん。頭には巨大なカツラをつけていました。

ドラァグクイーンとして、様々なお仕事をされているそうです。

パーティーでは、おいしいお酒や食べ物があるだけでは飽きてしまいます。そうした所で、引っかき回して人と人をつなげることをする。例えば、倦怠期のカップルや夫婦の食事会に呼ばれ、男性・女性のどちらにつく事なく話を聞く。間にワンクッション置くことで流れがスムーズになり、その場が暖まる。そのクッション的な部分、何者でもない、そうした存在が社会でも必要であり、ヴィヴィアンさんやドラァグクイーンの方々が求められることがあるそうです。

しかし、ヴィヴィアンさんは始めから、ドラァグクイーンになりたくて活動していたわけではないそうです。やっているうちに、他の人から「ドラァグクイーンなのではないか」と指摘されたとおっしゃっていました。

活動の幅が広いヴィヴィアンさん。映画などのメディアにも多数出演されているそうです。「釣りバカ日誌13」では、ハマちゃん(浜崎伝助)が宿泊した旅館の従業員として出演(ホタルイカサンバというのを踊ったとか)。20~30分ほどのシーンに対して、2週間も現場に缶詰にされたエピソードを話してくださいました。ここでも、場を和らげる存在として呼ばれていたそうです。

ヴィヴィアンさんは、建築学科の出身でもあります。ヴィヴィアンさんの中では、建築と建物は別として考えているそうです。建物は、学校の校舎や森ビルのようなもの。建築は建物も入るが、哲学とか考え方といったことを含めている。だから、建築を表現するには、踊りでもいいし、インスタレーションでもいい。ヴィヴィアンさんの頭の上にある大きなカツラは、「頭上建築」と呼んでおり、頭という限られたスペースでどうやったら建つかということをしているそうです。なので、カツラは普通、レントゲンを撮影すると何も写りませんが、ヴィヴィアンさんのカツラには構造物がありそこに装飾物があるので、影は写るし重くもなる。ペンだこならぬ「カツラだこ」が出来るそうです。首もいためてしまうほどと、おっしゃっていたので、はたしてどのくらいの重さなのでしょうか・・・。

カツラは、ヴィヴィアンさん曰く「あたしよりもあたしらしい」ものだとおっしゃっていました。カツラを使った展覧会の様子の写真なども見せてくださいました。カツラの展示では、いかに彫刻にならずに見せるか。ヴィヴィアンさんがそこには実際いないけど、まるでいるような、そういった展示にしたともおっしゃっていました。

また、所有しているカツラを壁にびっしりとかけてみた展示もおこなったそうです。そのカツラを組み合わせて、機織りをしてみたそうですが、カツラがカラフルなので、織られていたものも非常にカラフルになり、両端からは織りきれない羽などが出ていて、普通の織物とはまた違ったものになっていました。

実はこのレクチャーの準備のために、ヴィヴィアンさんは授業開始よりも早くから学校へ来ていました。お化粧に40分くらいかかるそうです。この化粧をするということは、顔の上に塗るのだから”別の人になる”ということが、よく考えられます。しかし、ヴィヴィアンさんは、お化粧をすればするほど、裸になっていくと言います。それは表面的なことではなく、内面を変えていく、頭の中が変わっていく時間であると。そして、裸に近づいて、皮膚が完全に裏返しになり、それを通り越して本来の自分に戻るのではないかと言うのです。手を動かすと脳が発達していくと言われていますが、お化粧をするためには手を動かします。この手を動かすというのは、何かを宿らすという事でもあるのではないか。儀式的な事ではないかとおっしゃっていました。

仙台出身のヴィヴィアンさん。東日本大震災がおき、そのために多くのイヴェンとが中止になったことがありました。そんなときも、自分にできることは「女装」することだとし、12日から活動を再開していたそうです。非常時にこそアートが必要であり、そこで役に立たなくてはアートの意味はないとおっしゃっていました。

他にも、活動の写真や卒業制作、アイデアノートも見せていただきました。最後の方では、杉田先生との対話を交えながら、また学生からの質問にも答えていただきました。



一見奇抜に見える格好は、それそのものがアートであり、信念を持って活動されている姿は唇のグロスよりも輝いていました。ドラァグクイーンのこと、建築のこと、そこにある哲学的な思考・・・。多くの要素を含みながらのレクチャーは、少なくともアートに関わっている学生たちにとって、一歩を踏み出す原動力へとつながっていったのではないでしょうか。


ヴィヴィアン佐藤さんのofficial blog

それでは。