2014年7月22日火曜日

芸術表象論特講#11

こんにちは。大学に住んでいたツバメたちが巣だってしまい、なんだかさみしいです。
7月2日におこなわれました、「芸術表象論特講」11回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、神奈川芸術文化財団学芸員の中野仁詞さんでした。



中野さんは、先日発表された2015年開催の第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の指名コンペティションにて日本館キュレーターに選出されました。レクチャーでは、ヴェネチア・ビエンナーレのコンペティションだけではなくこれまでの活動も含めてお話してくださいました。

中野さんは1999年から神奈川芸術文化財団に勤務しています。それ以前は、そごう美術館に勤務されていたそうです。演劇部門を担当した後、神奈川県立音楽堂で音楽事業制作を経て、2006年より県民ホールギャラリーを担当。初めての現代美術の展覧会企画は、塩田千春さんの個展「沈黙から」(2007)でした。塩田さんといえば、沢山の糸を空間に張り巡らすインスタレーション作品などがあります。もともと、音楽堂で勤務をしていた頃、塩田さんの美術作品と文楽を用いてシンプルなオペラ形式の演目をおこなえないかと、塩田さんと一緒に考えていました。その後、企画を進めていく中で県民ホールギャラリーへ転属となります。場所は変わってしまいましたが、美術の分野で何かできないかと考えたのが個展だったそうです。この展覧会のお手伝いとして、女子美生が関わることになります。きっかけは、年に1回開催される神奈川県美術展という大規模な公募展でした。その搬入に女子美の立体アートの学生たちがトラックでやって来たので、知り合いの非常勤講師の方に協力をお願いして先生に引き合わせてもらい、立体アートの学生を中心に展覧会を手伝ってもらったそうです。この展覧会以降、女子美の学生が企画展のお手伝いをさせていただくようになりました。参加学生の中には、毎年参加する学生もいたそうです。県民ホールギャラリーで企画展をおこなうときは、舞台の美術さんや大道具さんといった方々と展覧会を作り上げるそうです。パフォーミングアーツの世界では、会場を1日単位で利用することが多くあります。そのため、限られた時間の中で、トラックで資材を会場へ運送し、大道具を組み立てて、公演が終わればそれをばらしてトラックへ積み込まなくてはなりません。こういった経験を積んだ舞台の方々は、段取りの組み方が非常に上手く、また現代作家の要望に応えようとする柔軟さがあるそうです。

ヴェネチア・ビエンナーレのコンペティションについて、参加の経緯や、企画などもお話してくださいました。
ヴェネチア・ビエンナーレは、イタリアのヴェネチアで開催される芸術の祭典です。音楽、映画、演劇、建築、美術といった部門に分かれています。日本が美術展に公式に参加するようになったのは、1952年からです。展覧会は各国で所有している建物に展示をします(ただし、所有していない国もあります)。日本館のキュレーターを決めるのは、国際交流基金です。
国際交流基金には、国際展事業委員会というのがあります。まず、委員6名が選んだキュレーターに対して、「コンペ参加者に選出されましたので○月○日までに企画書を提出してください」と連絡が届くそうです。その企画書は、2ヶ月ほどで作成しなくてはならず、企画を作る時に時間をかける中野さんは、とても大変だったそうです。自分以外に誰が選出されたのかは伏せられており、プレゼンテーションの際も他のキュレーターとの時間をずらすなどされ、最終結果が出るまで極秘事項となっていました。中野さんと塩田さんは、誰が選出されているかを想像しあったそうです。

中野さんは、短い期間で企画を考えなければならない状況で作家を選ぶとき、付き合いが長くてお互いがわかり合えている人とやりたいと思ったそうです。作家とキュレーターの関係は、得意とするところとそうではないところ、お互いが補填し合うことが大事だそうです。展示空間をどう捉えているかも作家とキュレーターでは違うので、お互いが十分に話し合ってやっていくのが重要だとおっしゃっていました。それに合っていたのが、塩田千春さんだったようです。

提示した企画「《掌の鍵》- The Key in the Hand-」展は、鍵と赤い糸を用いたインスタレーションとなっています。
作品の根底には「人とのつながり」があります。今回は、震災の後ということもあり、塩田さんのテーマである「人とのつながり」と、「生と死」をコンセプトに展覧会を企画されました。震災を経た現在、「生と死」となると、「死」ばかりに注目されたり、暗い部分が強調されてしまうのではないかという懸念がありました。しかし、塩田さん自身が身近な人を亡くしているということもあり、「死」の体験をバネに「生」を感じることのできる力強い作品に出来るのではないか。赤い糸も、暗いイメージだけでなく、「人とのつながり」を表すモチーフになるのではないかと考えたそうです。
実際には、天井から大量の赤い糸を吊り下げて、その先に人が使っていた鍵を結びつけます。下には私たちの掌を表した2艘の舟があり、天からそそがれる温もりや記憶をもった大切な鍵を受け止めます。鍵を受け止めた舟は記憶の中を進んで行きます。地下のピロティには、子どもの手が鍵を持った写真と、幼い子どもたちに生れてくるときの話を尋ねた映像を投映する予定だそうです。地下のこれから記憶を積み重ねて行く子どもたちが、1階の数多の記憶を支えているということを表現しているのだそうです。


今回のレクチャーで、空間に囚われず作家の作品の持ち味を引き出すキュレーターの仕事を垣間見れたのではないでしょうか。来年のヴェネチア・ビエンナーレが楽しみです。現地に行ける学生は、是非その眼で見て体感してもらいたいと思います。



公益法人 神奈川芸術文化財団

ヴェネチア・ビエンナーレについて詳しいことはこちら
国際交流基金
※実際にコンペティションに提出した企画書(全選出者分)が公開されています。

「《掌の鍵》- The Key in the Hand-」展で使用する鍵を集めています。
※不要になった鍵に限ります。詳しくはこちらでご確認ください。

それでは。

芸術表象論特講#10

こんにちは。雲の様子が地域で違うのを見て、びっくりしています。
6月25日におこなわれました、「芸術表象論特講」10回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、アーティストのAya Koretzkyさんでした。



Ayaさんは東京生まれで、お父さんが日本人、お母さんがベルギー人です。1992年に両親がポルトガルへ移住することを決め、それ以降はポルトガルに住んできました。
リスボンの芸術大学では絵をはじめ、写真やドキュメンタリーなどの手法も習ったそうです。在学中ビデオアートや写真の作品を作り、映画の授業で先生に作品を評価してもらったことがきっかけで、映画の表現をしていきたいと思ったといいます。
卒業後、最初はドキュメンタリー、その後は違う映画監督と仕事をし、さまざまな作品に参加しました。撮影から編集、色補正といった技術を、所属していた会社で学びました。
映画という手法を使うのは、最初に先生に作品が褒められたこと、これまで写真やビデオで表現したことを入れることが出来るということが気に入っていること、そしてAyaさんが言いたいことがすべてが映画の中に入れることができるからだとおっしゃっていました。

レクチャーでは、Ayaさんの作品「山の彼方」を少しずつ見せていただきました。
この作品は、Ayaさん一家のポルトガル移住が軸になっている作品です。
はじめから、自身を題材にした作品を作るつもりはなかったそうです。2007年、別の撮影のために渋谷を訪れていました。そのとき、幼い時の思い出を撮影したいという気分で、日本人の兄妹を撮影していきました。1ヶ月間の撮影を終え、ポルトガルへ戻り編集作業に取りかかりました。その作業の際に編集をしてくれた人から、どうしてこの映画を作りたいのか尋ねられたそうです。その質問がAyaさんの心に引っかかり、どうしようか悩んだ末、自分に対してもっとはっきりしたほうが良いと思い、プロジェクトを思い切って変更しました。それまで撮影していたプロジェクトでテレビ局に助成金を申請していたのですが、変更することが自分の正しい道だと思い、ディレクターに思い切って説明したところ許可を貰うことができ、映画を作ることが出来るようになったそうです。

「山の彼方」はドイツの詩人カール・プッセの「山のあなた」からきているそうです。ポルトガルへ移住したため、それ以降Ayaさんにとって日本との関係はお父さんでした。お父さんに教えてもらったのが「山のあなた」で、よく一緒に歌っていたとのことです。
実際には見ませんでしたが、映画の最後にはAyaさんのお父さんが「山のあなた」を歌っているそうです。
撮影は1人でおこない、カメラの上にマイクをセット。ときどき手伝ってもらったとおっしゃっていましたが、ほとんど1人でこなしたそうです。音楽も、親しみを出すためにAyaさん自身がピアノを弾いたり、手紙の朗読をしています。
この作品は、自分の真実を探すために作ったとおっしゃっていました。制作している間に、ロシアの映画監督タルコフスキーの本の中に、「どの芸術家でも真実を探している。それが本当の芸術家でなければならない」と記されていたそうです。このフレーズはAyaさんにとってとても大切で、いろんな“なぜ”を探さなければならないと思わせてくれているそうです。Ayaさんのこれまでの人生の中で何が一番引っかかっているのかを考えたときに、日本から出てなぜポルトガルへ移住したのか、おばあさんや小学校の友だちと別れなければならなかったのか・・・。
この映画は、自己心理分析的な、そのような作品となりました。自分の考えること感じることが、人生に対してとても役にたったそうです。この映画を作ることは自分にとってだけではなく、自身の両親にとっても大事なこととなりました。この制作のために、今まで聞けなかったことを、制作を理由にして聞くことができたからだとおっしゃっていました。

作品は、さまざまなフェスティバルに呼ばれ賞も8個頂いたそうです。そうして選ばれるということだけではなく、見た人たちが直接話にきたり、暖かい言葉をかけてくれたこと、国籍とかを越えて、見た人が自身のことにも見えたと言っていたりしたそうです。映画がいろんな人に気持ちをわかってくれるということが、とても大事だとAyaさんはおっしゃいました。

今後は、自身のおじいさん(ロシア系)がどういうふうにロシアを出て、どのような道のりをたどったのか。おじいさんはロシアを出てから、お母さん(Ayaさんの曾祖母)と手紙のやりとりをしていただけで、二度と再会することはありませんでした。残された手紙などをもとに映画を作りたいとおっしゃっていました。

自身の人生で引っかかっていたことを、制作を通して知っていくことは、簡単なことではありません。わかることがすべて、良いことだとは限らないものです。Ayaさんは、自分と向き合う作品を作ることがこんなにも難しいとは思ってもみなかった、というようなことをおっしゃっていました。それだけ、自分と向き合い形にすることは大変なことでもあることを、学生も感じたのではないでしょうか。

ここから「山の彼方」が少しだけ見れます。

それでは。

2014年7月11日金曜日

芸術表象論特講#9

こんにちは。建物の外へ出ると、すごく暑くてびっくりします。
6月18日におこなわれました、「芸術表象論特講」9回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、杉田敦先生(本学教授)でした。



杉田先生は、1週間ほどポルトガルを訪れていたそうです。
レクチャーでは、杉田先生とポルトガルについてお話していただきました。

先生には、ポルトガルに関する紀行本があります。『白い街へ リスボン、路の果てるところ』(彩流社、2002)と『アソーレス、孤島の群島 ポルトガルの最果てへの旅』(彩流社、2005)です。2010年、日本ポルトガル修好150周年を記念して、両国の交流に功績のあった日本人へ勲章が贈られました。杉田先生は、ポルトガル美術を紹介した功績が認められて、"de Ordem do Merito"(メリト勲章)を叙勲されました。実際に頂いた勲章をこの日は持ってきていただき、学生たちに見せていただきました。

杉田先生はこれまで、20年で30回程ポルトガルを訪れているそうです。そのきっかけは、ある映画でした。それは、「白い町で」(1986)という映画です。この映画は、ブルーノ・ガンツ(後に「ベルリン・天使の詩」で有名になります)が扮する乗組員の貨物船が、ポルトガルのリスボンに流れ着く。乗組員は町へ降りていき、そのまま町へと飲み込まれてしまう。乗組員は動画を自撮りしながら歩いているので、時折その映像が映し出されます。この町への見込まれるシーンがとても魅力的だと、杉田先生はおっしゃっていました。

この映画を見てから、なんとなくポルトガルへ行ってみたいと思ったのが最初だったそうです。実際に訪れてみると、いくつか気になるものに出くわしました。まずは、町の白い壁にある帽子をかぶった男の人のシルエットのグラフティが、いくつもあることでした。今はそんなにないようですが、先生が訪れだした初期の頃は、よく見かけたそうです。この人物は、フェルナンド・ペソナといい、ポルトガル出身の詩人・作家で20世紀初頭に活躍していました。彼のすごいところは、60あるペンネームを使い分けて詩や文章を発表していたことです。それも、ただの名前ではなく、名前1つひとつに誕生日、職業などの人格的要素が決められていたことです。彼は、現代の哲学者たちに影響を与えました。
次に建築です。ポルトガルには、実に魅力的な建築が多く存在しているそうです。その中でも、アルヴァロ・シザの建築に出会いました。そして、彼の展覧会をしたいと思い、横浜のポートサイトギャラリーで実際に開催したそうです。当時は面識の無かったアルヴァロ・シザに建築家としてではなく1人のアーティストとして展覧会をしたいと手紙を書きました。ぜひやろうと返事があり、先生はアルヴァロ・シザの事務所へ通い、膨大なドローイングを選定し日本へ運んだそうです。
こうしたアーティストたちの存在や作品を知っていくことで、また別の展覧会を開催するにいたります。

2010年、女子美アートミュージアムJAMで「ポルトガル現代美術展ー極小航海時代ー」という展覧会を杉田先生は企画されました。作品を持ってくるのは大変なので、主に映像作品を展示しました。展覧会のタイトル“極小航海時代”としたのは、かつて大航海時代を築いてしまったコロンブスやマゼランとかが、日本のイメージとは違いポルトガルやスペインではタブーとされあまり触れられて欲しくない状況にあり、それを少しもじったそうです。この展覧会は韓国総合芸術大学の美術館へ巡回しました。関連企画として、出品アーティストのジョアン・タバラや映画監督のペドロ・コスタに女子美へ来ていただきました。


杉田先生は、以前からポルトガルの写真を撮っていたそうで、澁谷のパルコにあるロゴスギャラリーから、写真の展覧会と出版をしませんかと話があり、モノクロ写真の展示をしたそうです。この後、オルタナティヴなスペースでも展示がしたいと思い、写真を一回りサイズダウンさせ、2点ほど額装して、『白い街』を装幀家に頼んで豪華本にしてもらったものを展示したそうです。そして、今年度中に写真集を出版する予定になっているため、その撮影も兼ねて今回ポルトガルを訪れたとおっしゃっていました。

なんとなく吸い込まれて、どんどん奥へ行ってしまうような、そんな町がポルトガルのリスボンなんだそうです。見せていただいた映像の中にあった、狭い住宅の間を縫うように走っている路面電車など、どことなく不思議な魅力を感じます。杉田先生は、他の文化とふれあうことは自分自身が成長できることだと思う、無理して行くことはないけれど、訪れたときに学ぼうとするのではなく、呼吸するかのようにしてほしいと思うと、おっしゃっていました。これから外へ出て行く学生も、その予定が未定の学生も、自国以外の文化によりそう大切さを知れてたのではないでしょうか。


杉田先生の紀行本についてはこちら
『白い街へ リスボン、路の果てるところ』
『アソーレス、孤島の群島 ポルトガルの最果てへの旅』


それでは。

2014年6月30日月曜日

芸術表象論特講#8

こんにちは。学校に住んでいるツバメの子どもが、ときどき巣から顔を出してこっちを見てます。
6月11日におこなわれました、「芸術表象論特講」8回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、編集者の今野裕一さんでした。



今野さんは、1978年に創立したペヨトル工房から『夜想』という雑誌を発行していました。ペヨトル工房は2000年に解散し、そのときに出版も休止しました。2003年にparabolica-bisから『夜想yaso』を復刊しました。現在も雑誌や書籍の刊行と、併設しているギャラリースペースでの企画展示などをおこなっています。

レクチャーでは『夜想』を中心に、今野さんのこれまでの活動についてお話していただきました。

『夜想』の始まりは、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグという小説家の奥さんで画家のボナ・ティベルテッリ・デ・ピシスが、日本の画廊で展覧会をするというので、特集を組んだ雑誌を作ったことなんだそうです。雑誌には番号を振っていないのは、続けるつもりが無かったからで、雑誌の格好をしたものを作ったら面白いかな・・・と思ったからとか。
雑誌を作り始めた頃、家庭教師をしてお金を稼いでいたという今野さん。雑誌を作るのに当時では150万ほどかかるところを、現金で持ち合わせていたというのは驚きです。雑誌は5000部作り、1年くらいで3500部を売り上げたため、お金が戻ってきた。そこから、どんどん自分がやりたかったことをやってみようと思い、ベルメールの特集、夢野久作、アルトーと進みます。

雑誌には、おまけとして人形をつけたり、カセットテープが付いている“カセットブック”を販売したり、寺山修司をプロデュースしてアルトーの演劇を作ったり、死体の写真を掲載したりと、当時としてはとても変わった雑誌だったようです。

『夜想』のバックナンバーは新しいクリエイター予備軍が読んでいたけれど、2000年くらいになったときに、そういうことがなくなって、『夜想』が古くなったのかどうかわからないけれど、読まれなくなったので今野さんはいったん雑誌の刊行を止めました。
そんなある日、新宿を歩いているとゴスロリの女の子たちが歩いているのに出くわします。彼女たちは当時あったマルイ館へ入っていきました。何をしているのか、演劇みたいだと思い見に行くと、お茶会をしていたそうです。その子たちが「ゴスロリ」と呼ばれる子たちだと教えてもらい、その後にいろいろ調べてみると、そういう格好してビジュアル系バンド(当時はMALICE MIZERとか)を見に行ってたりしていることがわかった。「ゴスロリ」の格好をしているけれど、このこたちはバンドとかの方に行っていて、『夜想』とかは読まないな・・・と思ったそうです。それでは、彼女たちが読むような雑誌を作ればいいのではないかと思い、復刊第1号はゴスを特集しました。「ゴス」「ゴシック」と言っているが、今の子は「ゴシック」を知らないのではないか、ちゃんと教えてあげなくてはという思いがあったそうです。でもそれは間違っていて「ゴス」と「ゴシック」はかなり異なっていました。今言っている「ロリータ」も、昔の「ロリータ」と関係しているような顔をしていて、実際には関係がなく、ファッショナブルは派生なのではないかとおっしゃいました。「ゴス」はそれで新しい文化がはじまっていて、「ゴシック」というのも一応は入っているけれど、「ゴシック」から繋がっていない「ゴス」というのも両方あえて作ったとのことでした。

もうひとつ、人形の特集も多く手がけているそうです。
ハンス・ベルメール(1902-1975、ドイツ)という球体関節人形を広めるきっかけになった作家がいます。現在の球体関節人形の作家たちに聞くと、ベルメールの影響を受けて作りましたという人が多いというけれど、ベルメールの著書を読んでいるのかと聞くとそうでもない。ベルメールの特集を『夜想』で組んでいるので、それを読んでいる人もいるけれど、本当にベルメールと球体関節人形は日本に影響を与えていて、それを受けて作家たちは作っているのかなと疑問に思ったそうです。そこで雑誌を使って調べてみたら、実際にベルメールを研究したり書籍を読んだりして制作している人はいなかったことがわかったのだそうです。
雑誌では、ベルメールはこうで、今はこうなっていますという提示だけではなく、みんなベルメールから影響を受けているというけれど、そうでもないのではないかと、作家へ喚起するようにしているそうです。

今野さんはこれまで、さまざまなことをしてきました。
アーティストの森村泰昌さんとは付き合いが長く、2年くらいパーフォーマンスの演出担当をされていたそうです。その他に、歌舞伎のプロデュースやモダンダンスの演出、勅使川原三郎のツアーサポートもしたことがあるそうです。

現在は、雑誌の制作の他にギャラリーの運営もされています。
雑誌もギャラリーも、インディペンデントとして運営していて誰の助けもなくやっているため、売って稼いではそのお金で運営を回す・・・ということをしているそうです。ギャラリーは5つの部屋に分かれており、正月休みを除けば、ほぼ無休状態で動かしています。月に5本の企画を12ヶ月おこなうと年間で60本の展覧会をしなくてはならず、ものすごく大変。けれど、変な話ですが今まで生きていて、今が一番仕事をしている感じがすると、今野さんはおっしゃっていました。

今野さんは、半分好奇心だけで生きているから『夜想』がどうなていくかプランを立てている訳ではなく、そのときの興味とかでやっているのだとおっしゃっていました。しかし、2003年から10年はサブカル的なシリーズを特集し、『夜想』も2003年以降はリニューアルをしており、死ぬまでにまた好きなことをしようかなとは思っているそうです。
雑誌を最初に作ったとき、作家の為になる雑誌を作ろうと思った。それは、批評家の人たちがああだこうだと言って作家が反論する場がなく言われっぱなしになっているので、反論できる雑誌があれば良いのにと思っていたからで、作家が自分の主張も含めて出来るような場所を作れたら面白いだろうと思っていたそうです。

あくまでも作家よりだとおっしゃっていた今野さん。その時代時代を汲み取りながら、現在はどうなのかと問い続ける姿勢が、雑誌などの活動に活かされているのではないでしょうか。まずは、今まで読んだことがあった学生もそうではなかった学生も、『夜想』を読んでみることで、またはギャラリーを尋ねてみることで、世界が広がっていくのではないでしょうか。


『夜想』やギャラリーの情報はこちら


それでは。

芸術表象論特講#7

こんにちは。天気が不安定で、気持ちも晴れないのが続いて・・・。
6月4日におこなわれました、「芸術表象論特講」7回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、アーティストの飯山由貴さんでした。



飯山さんは本学の出身です。洋画専攻を卒業後、東京藝術大学大学院油画に進学、昨年修了されました。

2009年頃から、インターネットオークションでスクラップブックを購入し、それとの関わりから作品を作っています。すでにこの世にはいない、スクラップブックの作者の痕跡を追いかけるような、あるいは会ったことのないその作者と、ゆるい連隊を勝手に結び、しばらく生活するような感覚で制作をしているそうです。

スクラップブックとの出会いは、大学3年生の頃に偶然、古書市で1冊の古いスクラップブックを見つけたことがきっかけなんだそうです。以後、卒業制作に使用したりと集め続けて作品にしています。集め続けるには、他にも理由があります。飯山さんの家族は、幻聴や幻覚を見るそうです。彼女が昔に、マンガの「ワンピース」の架空のキャラクターになりきって、ルフィたちと冒険を繰り広げるという様子を見たとき、強いショックがあったそうです。そういった症状を持つ人は、昔だと豊臣秀吉や天皇になるという妄想が多かったけれど、今はそういう物語の妄想をする人は少なくなってきているらしい。時代に合わせて、妄想のディティールが変わってきていることが、奇妙であけれど、なんだか納得する。人間の精神は、神秘的で不可侵なイメージがあるけれど、本当はその人が生きている社会の状況や文化的影響をかなり受けていて、非常に可塑的で柔らかいものではないかと思うようになったそうです。そして、それを覗き見ることができるものがスクラップブックかもしれないと考えるようになったとのことです。

主に、昨年おこなった展覧会についてお話していただきました。

「湯気 けむり 恩賜」というタイトルでおこなわれた飯山さんの個展は、JIKKAというオルタナティブスペースで2013年の9月に開催されました。
タイトルにある「恩賜」とは、天皇や主君から物を賜る(貰うの謙譲語です)ことをいい、日本にしかない言葉であり、皇室関係で使用されます。
この展覧会のきっかけになったのは、学部の4年生のときに購入したスクラップブックに、後の昭和天皇になる皇太子や貞明皇后(大正天皇后)の新聞写真がスクラップされていたことなのだそうです。特に貞明皇后について調べてみると、ハンセン病に深い関わりを持った人物だったことがわかりました。

ハンセン病は、昔「らい(癩)病」と呼ばれていましたが、偏見や差別を生むとして「ハンセン病」と呼ぶようになりました。ハンセン病の原因は「らい菌」と呼ばれる細菌です。皮膚と末梢神経に影響が出るようです。そのため、痛みや温度感覚などの低下があるために、気づかないうちにケガをしたり火傷をしていることがあります。運動障害を伴うこともあるため、診断や治療が遅れると、主に指・手・足などに知覚マヒや変形をきたすことがあるようです。
日本では、1907年に「癩予防に関する件」という法律を制定、療養所に入所させて一般社会から隔離しました。このことで、ハンセン病は感染力が強いという間違った考えが広がり、偏見を大きくしたとされています。1931年に「癩予防法」を成立させ、強制隔離によるハンセン病絶滅政策という考えのもとに、在宅の患者も療養所へ強制的に入所させました。
ハンセン病は感染して発病することはほとんど稀であり、遺伝もしません。こうした過った政策が我が国では、長らくおこなわれてきました。
貞明皇后はハンセン病患者の支援をし、1931年に皇后の下賜金をもとに「癩予防協会」が設立されています。救済された患者もいますが、強制隔離が正当化されてしまったということや、一連の活動が皇后の真意に関わらず彼女の作った歌や、後に述べる物語がプロパガンダとして政治に利用されたという面もありました。

展示タイトルにある「湯気」は、奈良の法華寺にある「浴室(からふろ)」(現代で言えばスチームサウナ)から出る湯気です。これは光明皇后(聖武天皇の皇后)が建立したとされ、皇后がハンセン病患者の垢をこすった(または膿を口で吸い取った)ところ、その患者は仏であったという奇跡が起きたとされる伝説があります。このお寺では、毎年1回、健康やご利益ということから、浴室の体験をおこなっており、飯山さんも体験し、この浴室の湯気の映像を撮影してきたそうです。

また、「けむり」という言葉は、ハンセン病資料館で聞いたり語り部の方が話した言葉に由来していて、会場には「けむり」と「湯気」の二つの映像が並べられて展示されたそうです。

飯山さんはハンセン病患者の世界を小説や短歌の創作が盛んであるとも話しました。展覧会をきっかけに、ハンセン病患者が書いた小説を、執筆者をよく知っている方と共に読書する活動を知ったそうです。ハンセン病からの回復者の方たちが社会で生活していらっしゃいますが、日本で、新しくこの病気にかかる可能性はほとんどないとのことです。そうなると、この国でのこの病気の終わりには、その病気を経験した人たちが作った、たくさんの小説や手記、歌、詩などの制作物が残されることになるのではないか。これはとても豊なことですが、それをどう引継いでいくのか考えなくてはならないのでは、と感じているそうです。

ハンセン病の療養所へ長い期間足を運んだわけではなく、ほんの一瞬触れただけだったが、それを例に話すと、世の中にはなかなか入り込めないコミュニティがまだ他にもあり、それを外側から眺めることで発見することや失われたことが見えてくることもある、一般には忘れられた関係もあるのではないかと思っているそうです。研究や調査では聞き取りを複数して提示しなければならないし、沢山の人に聞き取り調査をすると、一人ひとりの顔や名前、人格みたいのが薄まって大きな調査になってしまう。こうしたアートという形態は、作家の思い込みや失敗も含め、ノイズの入り込む余地があり、調査報告とはまた全然違う形で提示することが出来るのではないかと飯山さんはおっしゃっていました。

1931年の「癩予防法」に関連するSPレコードと蓄音機を実際に持ってきていただきました。展覧会では来場者が来ると、このレコードを蓄音機で鳴らしていたそうです。


また、こういった制作にトライする人が増えて欲しいともおっしゃっていました。
飯山さんは、学生の頃に絵を描くことをしていたけれど、自分が描きたい絵は誰かが描いてくれているからと思い絵ではない制作をしようと思った。アートをやる面白さや意味は、自分の感情や自分の中で解決できない問題を、外側から考えることが出来る手段であるのかもしれない、例えばそれはこの場合ハンセン病であって、この国の制度や形作られた何か排他的なものが物語られている。

もうひとつ、今制作している作品のお話もしていただきました。
飯山さんの家族には、幻聴や幻覚がみえるため、病院にかかっている人がいて、調子が悪くなると話しかけたりしてもリアクションせず、ぼーっとしていたり、そのままどこかへふらっと行ってしまうことがあるそうです。
去年の冬に「自分の本当の家を探しに行く」と言って出て行こうとしたところを、引き止めていたそうですが、そのとき、いつも聞き流していた彼女の言葉が、大切なことを語っている気がして、症状が安定しているときに、実際に二人で本当の家を探しに行ってみたそうです。その記録をつくる過程で、いままで本人が家族や医者に隠していた、いま何が見えていたり聞こえているのかを話してくれたそうです。彼女が見ている世界について話してもらうと、普段は気がつかない願望や生活している感覚が、今までよりもわかった気がしたそうです。 
冒頭に出たワンピースの話からは、約10年くらい経っているのですが、今は幻聴や幻覚があるときはムーミンが声をかけてくれたり、ムーミンたちと海の神さまに会いに行ったり、難破船に遊びに行ったりしているそうです。今度おこなう展覧会では、彼女が見ている世界を再現したいと、おっしゃっていました。

これまでは、彼女の心や身体の中で何が起きているのかわからなかったけれど、歩み寄っていくと、もっと心をあかしてくれたというか、何が見えるか教えてくれるようになった。幻覚や幻聴が聞こえることの負担を、本人はときどき抱えきれなくなり、時にはこの世からいなくなることを考えさせるそうです。でも、ムーミンといるときのように、それによってやすらぎを得ることもあるらしいです。何が聞こえているかを知り、それを一緒にやってみることによって考えてみる・・・最近はそういうことをしているそうです。

1冊のスクラップブックからどんどん広がって、それをアートという方法で見せる。普通に調査して研究した成果とは違った視点の見せ方を、飯山さんは追求されているようです。そして、これからは自身の家族について向き合っている。このことはまったく違ったことのように思えますが、俯瞰してみたときに、つながりをみせるかもしれません。
飯山さんの次の作品が楽しみです。


飯山さんのHPはこちら。展示の様子も少し載っています。

それでは。


※ハンセン病はについては、国立感染症研究所感染症情報センターHPと厚生労働省のHPを参考にしています。