2015年11月30日月曜日

芸術表象論特講 #10


芸術表象論特講 第10回のゲストは演劇批評・編集者の藤原ちからさんです。



 藤原さんは2011年からBricolaQを主宰されており、劇評をはじめとした様々な分野への執筆や、フリーランスの編集者としてカルチャー誌や書籍に携わるなど、演劇を軸としながら非常に幅広い活動をされています。また、最近では本牧アートプロジェクト2015のプログラムディレクター、アジア舞台芸術祭APAFアートキャンプ2015のキャプテンも務められています。


 今回のレクチャーでは、藤原さんが2014年から行われている遊歩型ツアープロジェクト『演劇クエスト』の"マニラ夢の迷宮編"を中心にお話をして頂きました。さて、演劇クエストとは一体どのようなプロジェクトなのでしょうか。藤原さんのBricolaQウェブサイトには以下のように記されています。
「冒険の書」に記された選択肢を手がかりに、広範なフィールド内を自由に移動する遊歩型ツアープロジェクト。参加者は迷子のようにさまよい、人々の夢や生活やエートス、都市の歴史、亡霊のような言葉、土地の精霊……などに遭遇します。
▼演劇クエストとは? - BricolaQ より

 演劇クエストで用いられる「冒険の書」は、パラグラフとして小説や詩・エッセイなどから様々な引用が使われており、参加者はかつてのゲームブックのようにパラグラフの選択肢を幾度となく選びながらマップと文章を手掛かりにフィールドを彷徨って行きます。演劇クエストの最初のバージョンは、ヴァルター・ベンヤミンにより19世紀の近代都市パリをテーマに書かれた『パサージュ論』からインスパイアを得たそうです。(パサージュとは、現在でいうアーケードのような商店街を兼ねた歩行者用通路。ガラス製の屋根や大理石、モザイクタイルによる舗装など豪華な装飾がされ、両側の店舗に並ぶ様々な商品を眺めながら当時の入り組んだパリの街を雨風や馬車を気にせず歩くことが出来た。)19世紀のパリでは、街をぶらぶら歩き何かを見出そうとする人々が現れ、彼らはベンヤミンにより「遊歩者」という言葉で論じられています。この「観光ではなく、遊歩する」ということが藤原さんにとって大きなテーマになったとのことで、第一回の冒険の書にはベンヤミンからの引用も多く出て来るそうです。

これまで開催された演劇クエストの一部は、参加者による「冒険の記録」がアーカイヴされており、こちらのサイト『演劇クエスト・冒険の記録』で閲覧することが出来ます。シナリオに沿って進みつつ引き起こされる参加者それぞれの感情、つぶやき、記憶、思い出などは、実際に参加したことがなくとも心惹かれる内容で、おもわず読み耽ってしまいます。興味がある方は是非読んでみて下さい。



 演劇クエストはこれまでに「京急文月編」「本牧ブルース編」「港のファンタジー編」「横浜トワイライト編」が開催されており、今回のレクチャーで解説して頂いた"マニラ夢の迷宮編"は、今年の5月にフィリピン・マニラでの「KARNABAL Festival 2015」にて、ワークインプログレスとして発表されています。藤原さんは、演劇クエスト初の海外進出となるマニラでの開催にあたり、2週間以上現地でリサーチをされたとのことで、レクチャーの冒頭では、まずフィリピンの首都マニラがどのような街で、どのようなことが起きているかということについて、雰囲気だけでも共通認識として得るために、藤原さんが本日のために編集をして下さったという映像を見せて頂きました。




藤原さんたちが参加した「KARNABAL Festival」は3年計画のフェスティバルで、今年がその1年目という始まったばかりのプロジェクトです。"Performance and Social Innovation"というスローガンにあるように、単に演劇やパフォーマンスを劇場で上演するだけでなく、参加型、祝祭型など様々な形態のプログラムが開催されているそうです。(BricoraQの「マニラ滞在記」には藤原さんが現地で鑑賞・体験したプログラムについても述べられており、こちらもぜひ一読をおすすめします。)また、「KARNABAL Festival」はJapan Foundation(国際交流基金)からの助成を受けており、2020年の東京オリンピックを控えて、現在様々な文化予算が出ているものの、オリンピック以後にそうした助成が削減される可能性も考慮しなければならず、現在の状況は残り5年という時限付きのチャンスとも言えるというお話もありました。


 メイン会場は二つあり、ひとつはフィリピン大学の敷地内にあるヴァルガス美術館、もうひとつは民間のパペット・ミュジオ(Teatro Papet Museo)という人形の展示などもおこなっている人形劇の劇場だそうです。特徴的なエピソードとして、現地では開演時間が押すこともよくあるそうですが、藤原さんが観劇した日は終演時間も延びて深夜12時頃まで騒いでおり、さすがに地域の警官が静かにするようにと注意に来た際に、関係者が息子の知り合いだと分かると「じゃあいいや」となってしまったそうです。藤原さんは、これは良くない所でもあり政治の汚職と紙一重の部分もあるが、システムで動くのではなく、人と人の直接の距離感で動いているように感じられたと話されています。

本来、演劇クエストは「冒険の書」を手に参加者が一人一人歩くというプロジェクトですが、今回のマニラではそれが難しく、映像という形式で発表されています。その理由として、一つは治安がかなり悪く一人では危険があること、そしてもう一つは、マニラの人は普段から地図を使う習慣がなく、日常的に俯瞰で自分の位置を確認することがないと話されていました。例えばタクシーに乗った際も、運転手はまず大体の場所まで行き、そこから通行人に尋ねながら目的地まで辿り着くそうです。

藤原さんが発表したワークインプログレスは、現地のアーティストと組んでディスカッションなどを重ねた結果を、15分間の映像(パワーポイント)で制作し、その操作を舞台上でおこなうというパフォーマンスをされています。映像をパフォーマンスの中に取り入れる手法は、日本でもわりと最近使われているそうで、日本語と英語のインストラクション(指示文章)を交えながら進んで行くこの映像は、YouTubeでも公開されており、こちらから観ることが出来ます。
ENGEKI QUEST in Manila Dream Labyrinth」(YouTube)


「マニラ・夢の迷宮編」からのスクリーンショット(4分割)
マニラの人が地図を普段使わないことについても触れられています。
会場にいた現地の人たちは果たして何番に挙手をしたのでしょうか?
映像や写真が流れていくだけではなく、演劇クエストで使われる「冒険の書」のような
インストラクションやパラグラフの引用などが織り交ぜられており、観るというより参加をしながら
演劇クエストを少しだけ疑似体験しているような感覚になります。

この発表(パフォーマンス)をした際、現地では会場からの反響も良く手応えを感じられたそうです。印象的だったのは、藤原さんは演劇批評をしてることもあって、「"パフォーマンスと客席の関係" についても気になっている」と述べられており、レクチャー中にも「こうして喋っているのはライブ感はあるのだけど、研ぎ澄まされていない感覚が自分の中にはある。一方で文字にすると、他に言いたいことがあるのだけれど、1行に納めるということがひとつの効果を生み出すと感じている」と話されています。また、リサーチ期間を含め、計19日間マニラに滞在されている中で、毎日アーティストたちとディスカッションを重ねていると、最後の方は、現地の人に合わせて英語で喋らなければならないことに一種のストレスを感じていたそうで、こうした文字によるやり方は「一言も喋らずに、けれどもコミュニケーションを取る意思を示せる」とも仰っていました。


 今回のレクチャーでは、この他にも藤原さんが、京都の劇団『地点』の公演に帯同し中国・北京に滞在した際のお話や、韓国で「災害後の演劇」について現地の批評家・演出家と対話をした際のお話など、様々な内容についてお話して頂きました。演劇クエストは、聴講生にとって自分たちが普段制作や研究をしている美術・アートとはかなり異なる形態のプロジェクトであり、なおかつ近年各地で開催されている国際芸術祭などで、街や地域に設置された作品を観て回るような鑑賞の仕方とも異なる「遊歩」という、ある種形容し難いような魅力を持ったものだということが、藤原さんのお話から伝わって来ました。


藤原さんによるBricolaQはこちらになります。
http://bricolaq.com/
今年10月には兵庫県城崎町にて「演劇クエスト 天下無敵の城崎温泉編」が開催されており、今回の記事では紹介出来なかった色々なコンテンツが掲載されています。

また、藤原さんがプログラムディレクターを務める「本牧アートプロジェクト」は
12月12日(土)・13日(日)に、横浜・本牧エリア一帯で開催されます。
こちらもぜひご覧になってみて下さい。
http://honmoku-art.jp/2015/





2015年11月13日金曜日

芸術表象論特講 #8

6月24日に行われた芸術表象論特講、今回のゲストはアーティストの中上清さんです。



1970年代から画家として活動されている中上さんは、横浜や東京を中心に毎年個展をおこなっており、2008年には神奈川県近代美術館(鎌倉)にて回顧展「絵画から湧く光」を開催されています。また第10回インド・トリエンナーレをはじめ、パリ、ニューヨーク、ソウル、ベルギーなど国外でも活躍されています。そして、1995年に日本画専門の美術館である山種美術館にて開催された「今日の日本画 第13回山種美術館賞展」では、カンヴァスにアクリル絵具で描く中上さんの作品が推薦されており、日本画という枠組みを巡り当時の議論に影響を与えたことでも有名です。

「自分はあまり人に教えたことがなく、また教えられたこともあまりないので...」と冗談を交えながら始まったレクチャーでは、中上さんが初めて個展を開いた頃から近年に至るまで、40年にも及ぶ作品の流れや変遷について解説して頂きました。


中上さんは高校卒業後、1971年から横浜のBゼミ(現代美術ベーシック・ゼミナール)に通われており、その年の10月に富士見町アトリエにて初個展「中上清−−12の平面による−−」を開催し、作家としてデビューされています。

中上さんがデビューした次の年の展示風景 (1972年)
この最初の立体作品シリーズは、翌年に横浜市民ギャラリーで開かれた「EXHIBITION Bゼミ」にも継続されています。台形や三角形と枠のように伸びている部分は、元々およそ30㎝×90㎝の長方形であり、それを45°の角度で10㎝ずつ切り出して展開させているとのことです。









壁面に沿って掛けられた三角形の作品(1974年)
1974年のこの作品は、正方形を45°で斜めに切った形を反対に持ってきてあり、外形が内で繰り返すように構成されています。この頃は「面」というものは描くものなのか?置くものなのか?それとも作るものなのか?という意識があったと話されており、この作品は画面の中に「置く」意識の方が強くあったそうで、アルミパウダーを用いてシルクスクリーンで刷ったものが置かれていて、米国の作家フランク・ステラへの意識もあったと話されていました。



その後に中上さんは、斜めの線を繰り返し描いたドローイング作品を制作されています。1975年の横長の大きなドローイングは、アクリル板の裏側からダーマト(グリースペンシル)で描かれており、フレームとの関係を意識されています。
ドローイングのシリーズのひとつ
裏側から線を描く作品は、右利きのため画面を縦横90°回転させて描いたそうです。
北澤先生からの補足によると、1975年という時代は「トランスアヴァンギャルディア」というアヴァンギャルドを否定して絵画や彫刻という歴史的なメディアを、そして人間の身体性を取り戻そうとする動きが出て来た頃であり、この辺りから世の中に「描く」というか「絵画」が前面に出て来たそうです。




カンヴァスに斜めの角度が付いた1979年の作品
神奈川県近代美術館での回顧展にも展示されています。
カンヴァスの側面も塗られており絵画の平面性や空間についても考えされられます。
1979年のこの作品は、カンヴァスを斜めに傾けて置かれ、そこに垂直線と水平線が引いてあり、そして更にそこから得られる幾つかの線が描かれています。当時なぜこのようなことをしていたかの理由として、中上さんは「ドローイングの作品もそうだったけれど、カンヴァスの中に形が描けなかったんだよね。作ることが中々出来なくて、端から追う。そういうようなことしか出来なかった。」と話されています。


色彩や構図が特徴的な1980年の作品
この構成は以前から試みていたそうです。

その後、中上さんは画面を三分割した特徴的な構図のシリーズを継続して制作されています。この作品は隣同士が補色になるように色が選ばれており、60年代から70年代前半にあった「もの派」などの禁欲的な流れを引き継ぎながらどうやって色を復権させていくか、という当時の実験的な時代背景との関係性も興味深いお話でした。このシリーズは以降構図の一部に円や曲線が加えられていきます。






画面中央に金色が大きく使われている1983年の作品
この辺りの作品はみんなメタリックが使われているとのことです。

1983年に中上さんはアメリカに行かれており、その頃の作品では画面に大きくメタリックカラーが用いられています。以前はマチエールを否定されていたそうですが、アメリカから帰国後に描くようになったと話されていました。また、このメタリックカラーは作品の構成や手法の変化を伴いながら今日まで使い続けられています。








1986年に入ると、箔のようなマチエールが表れています。これはローラーで金の絵具を塗っているとのことで、本来ならばムラを付けないためのローラーであえてムラを出していると解説されていました。この年に制作された作品は、2004年に開催された東京国立近代美術館での「琳派 RIMPA」展に出品されています。レクチャーでの印象的なエピソードとしては、尾形光琳の紅白梅図屏風の「金箔」問題と関連した話が興味深いものでした。(2002年の調査では金箔ではなく、金泥を筆で箔のように描いていると鑑定され話題になっていましたが、2010年に再調査したところやはり金箔を使っていたという結果が報告されており現在も議論されています。)




また、この頃(実際にはこの2年前からとのこと)の作品には、額縁を横にして一辺だけ付けたような桟が付けられています。北澤先生との話によると、カンヴァスの側面部分を塗ることと同様に、絵画に物体性を与えるということ、人間の身体性の痕跡をなるべく残さない。絵画への危機感におそらく関与しているということです。












その後、年々変化していく作品の解説を交えながらレクチャーは進んでいきました。
1997年にソウルの国立現代美術館にて開催された「日本現代美術展」に出品された作品では、正方形や菱形の箔足は無くなり、新たな印象を感じさせられます。上方に伸びる金色の絵具は、筆もローラーも使わず、風を当てて描いているとのことで、材料を変えたことによる鱗状のマチエールも特徴的です。






さて、ブログの都合上紹介出来る内容も残り少なくなってきました。こちらはレクチャーの最後に解説して頂いた2015年の作品です。中上さんは「光」について尋ねられた際に、絵画について「光と空間」があれば絵画は成立するだろうと自分の中で考えているとお話されています。また、昔の若い頃は実験のようなことをやっていたが、途中からどこかで中学生や小学生の頃に「ああ、絵描きになりたいなあ」と考えていたところへ少しずつ戻っていくような思いがあるとも述べられていたのが、この作品と解説と重なるようでとても印象的でした。



 今回の芸術表象論特講は、中上清さんという一人の作家による40年にも及ぶ作品の数々を90分の中に詰め込んだ非常に濃厚な内容でした。特に、当時の美術動向の時代背景を補足しながら、中上さんが作家として活動を始められた20代の頃の作品から解説して頂いたことは、聴講生にとって貴重な機会であったと思います。個人的には、中上さんの作品が少しずつ展開していくことについて話されていた中で「一遍にすべてを捨てるわけにはいかない」という言葉が、人間の成長や歩みを表しているようで、とても心に響きました。

中上さんが2008年に神奈川県近代美術館にておこなった個展「絵画から湧く光」の展覧会カタログは、本学図書館にも所蔵があります。また、毎年おこなわれるギャラリーでの個展のほか、各地の美術館への出品、東京国立近代美術館への収蔵もされていますので、ぜひ作品をご覧になってみてください。

2015年10月23日金曜日

女子美祭2015 開催中です!

みなさんこんにちは!

女子美祭が今年も始まりました。
本日23日(金)から25日(日)まで、3日間に渡り開催しています。
芸術表象専攻では、12号館1214教室にて、3年生を中心に企画されたワークショップが行われています。

今回のタイトルは「彩り☆ノーズ」〜においに色を塗るワークショップ〜
どこで開催しているのか、どのような内容なのか?
少しだけみなさんにご紹介させて頂きたいと思います。


12号館の入り口はこちらです。
野外ステージ正面から向かい側に建物があります。



12号館に入り、1階をそのまま進んで行くと会場の1214教室があります。
さっそく順番待ちが出来ていますね。



ワークショップ受付です。

「におい」から想像した色で、手渡された紙を彩ってみて下さい。
と受付の学生が説明してくれます。
パレットに絵の具を出してから、会場にたくさん置かれた小瓶の匂いを嗅いでみましょう。



見学に訪れている付属生の方たちがワークショップを体験しています。
「えーっ!これ何のにおい!?」と、楽しそうな声が上がっていました。

普段は当たり前に感じている匂いは、視覚なしではどう感じるのでしょうか?
またそこから思い浮かぶ色彩とは一体どんなものなのでしょうか?

会場の奥には解答コーナーも設置されています。
興味がある方は是非ワークショップを体験してみて下さい。


女子美祭では、他にもさまざまな専攻の展示や有志による展覧会をはじめ
フリーマーケットやトークショーなどイベント・企画が盛り沢山です!
10月23日〜25日まで3日間開催していますので、みなさんも是非いらしてみて下さい。






2015年10月13日火曜日

芸術表象論特講 #9

7月1日におこなわれた「芸術表象論特講 #9」 今回のゲストは彫刻家の青木野枝さんです。




青木さんは鉄を用いた彫刻作品が有名ですが、版画作品や石膏を用いた作品なども制作されており、近年では2012年に豊田市美術館・名古屋市美術館での個展「ふりそそぐものたち」やギャラリーでの個展のほか、越後妻有アートトリエンナーレ、瀬戸内国際芸術祭、あいちトリエンナーレなど国際芸術祭にも出品され、作品を実際に目にしている学生の方も数多いと思います。今回のレクチャーでは作品や展覧会の解説だけでなく、工房や制作現場、搬入や現地での作品の組み立ての様子など、アーティストとして多岐にわたる活動についてお話していただきました。


右側の建物が青木さんのスタジオ
近くには川が流れているそうで、中央には大きなスモモの樹が写っています。
スタジオ内の様子
左下に写っているのはバッテリー溶接機で美術館などでも使用するそうです。
青木さんは、大学院を出た頃から埼玉県飯能市の自然豊かな場所にスタジオを借りており、30年以上そこで制作をされています。高さが最大3m、一棟の面積が約70坪あるスタジオは鶏舎の造りのため壁が網になっており、冬はマイナス7℃  夏は42℃にもなるそうです。上は作品を置いておく倉庫になっていて、彫刻をやる人は制作だけでなく作品を保管する場所についても大変だと話されていました。



材料に使われるコールテン鋼(耐候性鋼)の鉄板
床は溶断・溶接作業で燃えないようにコンクリートが敷かれています。
青木さんが溶断をしている様子
なるべく無駄なく多くのパーツが取れるように同心円で切っているそうです。
材料の鉄板は予め切り分けられたものではなく、ゴトウ板(5×10)という3m × 1.5mの大きさのコールテン鋼をそのまま買っているそうです。これは1枚の重さが500kgもあり、しかも一度に10トンを鉄鋼メーカーから直に購入し、ユニック車(クレーン付きトラック)でスタジオまで運んでいるとのことです。

この鉄板をアセチレンと酸素の混合ガスを用いた溶断機で切っていくことで、青木さんの作品のパーツが作られていきます。最近はアシスタントの方が1人付いてくれているそうですが、鉄板を切るのはドローイングと同じように「線を描き、その上を切る」という作業なので、他人では線が変わってしまうため青木さん自身が全て行っています。溶断作業は1日10時間近く延々とおこなうそうで、非常に根気と労力がいる作業だということが伝わってきます。

天井の梁にチェーンブロックを掛けて溶接をおこなっている様子
溶断した鉄板は、電気溶接で接合させていきます。上の写真は天井の梁にチェーンブロックを掛けて溶接作業をおこなっているところで、この作品の場合、6つの球を繋げたものを1つのパーツとして6〜8セット輸送し、更にそれらを現地で溶接して設置されています。日本の電源電圧は100Vですが、海外は電圧が200Vの国が多く、その場合小さな溶接機で作業ができるそうです。

現地のスイス・チューリッヒの美術館にて梱包を解かれる作品
オランダの方まで船便で送り、さらにそこから陸路で運ばれたそうです。
ハウス・コンストルクティヴ美術館の階段に設置された作品
写真(左)が階段の一番上から、写真(右)が一番下から見上げた様子です。
また、この作品が出品されたグループ展「ロジカル・エモーション-日本現代美術展」は、直前に巡回が決まったため、現地で作品を解体し、リサイクルしてドイツの工場で別の作品を制作されたそうです。現地の美術館のスタッフの方と協力して設置作業をする様子も色々解説して頂きながら、青木さんは自分の作品は設置するのが大変だと話されていました。



大学院修了作品 (神奈川県民ホールでのグループ展)
この頃は売っている丸鋼などを用いて制作をされていたそうです。
続けて、レクチャーは青木さんのこれまでの作品と展覧会の解説に移っていきます。上の写真は、青木さんが大学院を修了される際の作品です。この頃は建築のようなもの・タワーに興味があったそうで「自分にとって彫刻は決して固まりではなくて、風が通るようなもので、なおかつこの間を人が歩けるようなものが私にとって作りたいもの」と話されていました。当時、タワーというのは建築なのだけれど人が住まない象徴的なものであり、例えば仏舎利塔のように、本当に小さなもののために「それがそこにある」という表れの感じがすごくいいなあ、と考えて制作されていたそうです。




1992年の作品。手前に写っている白い卵は細い銅線で十字に縛ってあり、
クリスマスツリーに飾りを付けていくような感じで設置されていったそうです。
1992年に制作されたこの作品には、本物の鶏の生卵が使われています。青木さんはずっと食べ物を使ってみたいと思っていたと話されており、例えば日本では節分に鰯と柊を戸口に置いて鬼除けにするが、アフリカにもそういった風習があるなど、食べ物と自分の作品を一緒に出来ないかと考えていたそうです。

この作品は、2012年の豊田市美術館・名古屋市美術館での個展などにも出品されており、卵の数や設置する位置などが毎回異なっているとのことです。また、作品の解説と合わせて青木さんが「なぜ鉄をやっているか」ということについてのお話が興味深い内容でした。アルミやステンレスは熱や火を加えても銀色のままですが、鉄というのは溶断機を使うと、段々太陽のようにオレンジ色に輝いてくるそうです。さらにもっと温度が上がると白色に白熱していき、それが冷えていくのを見てると、真ん中に光が残るため、自分にとって半透明に見えると話されていました。作品で使われている卵も、光にかざすと中に世界が少しだけ透けて見えるため、青木さんにとって鉄と卵は似ているという思いがあるそうです。



こちらは1995年に大阪の国立国際美術館で展示された作品です。直径3mの円は分割して搬入し、高さ2m50cmの上に伸びる棒は会場で溶接をされています。エピソードとして、公や国立美術館の中で溶接をしたのはおそらく青木さんが初めてだったそうです。それまでは美術館の中で溶接をするなど信じられなかった時代だったとのことで、当時強力なバッテリー式の溶接機が出たこともあり、そのままでは運ぶのが難しい大きな作品をパーツに分けて現地で溶接する手法を初めてとった展示だと話されていました。



2006年の越後妻有トリエンナーレでの作品
小学校跡のプールに作品を設置されており、田んぼの水が中へ引かれています。
越後妻有アートトリエンナーレでは、2003年から毎回参加されており、白羽毛(しらはけ)、そして西田尻という集落で作品を制作されています。冬には3〜4mもの豪雪が積り、過疎地域でもあるため、周りにはおじいさんが一人で住んでいる集落などもあるそうです。制作の許可をもらうために、長老たちが集まる集落センターへお酒と最中を持ってお願いに行った際には、長い沈黙の後にようやく一人の方が「やらせてあげようよ」と言ってくれたとのことで、時間を掛けながら徐々に地域の人たちと打ち解けていき、現在では親戚同様の関係になっているそうです。

青木さんは、それまで地方の美術館などへ行くことはあっても、こうした集落へ訪れたことがなく、「日本はすごい過疎なんだな」と初めて実感したそうです。また、越後妻有はその後各地で開催されるトリエンナーレや芸術祭へと繋がる発端になったこと、美術館や画廊に来る限られた人ではなく、一般の人が見に来てくれるようになったことなどのお話しを交えながら、日本の美術史の中でも一つの転換期だと思うと述べられていました。



レクチャーではこの他にも、名古屋市美術館・豊田市美術館や大原美術館有隣荘での個展、アートプログラム青梅、瀬戸内国際芸術祭などについても作品のスライドと共にお話して頂きました。紹介したい内容はまだ沢山あるのですが、最後に特に個人的に印象に残った青木さんのワークショップについてのお話を簡単に紹介したいと思います。
2013年のむつ養護学校でのワークショップの様子
実際に子供たちが作った作品の写真も見せて頂きました。
青木さんは子供たちとのワークショップをよく行われており、初めは子供に鉄をやらせるのは如何なものかという話もあったそうですが、火傷をしてもいいじゃないということで始められたそうです。鉄の場合は子供たちが絵画などのように上手下手の先入観で恥ずかしがらずに取り組んでくれるとのことです。

鉄を切ったりすることは普通の人は「できない」と思っていますが、それが「できる」ということは、その技術が自由選択の一つの「道」として、子供たちの選択肢が広がるのではないかと考えられているそうです。また、子供たちも幸せな時ばかりではなく、いじめにあったり等色々なことがある中で、テレビゲームもいいし読書でもいいのだけれど、子供が彫刻をつくること、あるいは何かをつくることで「一人でも大丈夫だよ」というメッセージになればいいなと思っているとお話されていました。


今回のレクチャーでは、履修している学生以外にも立体系の先生や学生が聴講しに来ている姿も見られました。青木さんの作品や展覧会についてのお話だけでなく、スタジオ内部、制作の工程、搬入や設置の様子など、僕たちが普段見る美術館や会場に展示されている作品の姿以外の部分についても解説して頂いています。1枚500kg以上ある鉄板に線を描き溶断する所からの制作作業をはじめ、作品を保管するスペース、経済的な問題など、お話を聞いているだけでも途方もなく大変なことだと伝わってきます。しかし、そうしたお話の中で青木さんが仰っていた「わたしにとって彫刻をつくることは『この世界で自分の居場所をつくること』」という言葉はとても心に響きました。

今年の大地の芸術祭 越後妻有トリエンナーレでも、白羽毛にて青木さんが制作された作品が展示されています。
みなさんもぜひ現地でご覧になってみて下さい。

2015年9月9日水曜日

芸術表象論特講 #7

芸術表象論特講 #7

6月17日に行われた第7回のレクチャー、ゲストはアーティストの榎本浩子さんです。



榎本さんは女子美術大学、そして大学院の洋画研究領域を修了しており、現在は働きながら制作を続けています。近年では主にインスタレーション作品を制作しており、2015年の群馬青年ビエンナーレでは、275名406点の応募作品の中から大賞(グランプリ)を受賞されています。

レクチャーでは、作品にも大きく関係している榎本さんの暮らしと、これまでの作品や展示を時系列に沿って振り返りながら進められました。今回はスライドで映された写真を中心にレクチャーの様子を紹介したいと思います。

群馬県伊勢崎市出身の榎本さんは、子供の頃から絵を描くことが好きでよく教科書に落書きをしていたそうです。担任の先生から美術大学を勧められ、高校3年の夏から予備校に通われたとのことで、受験まで短い期間ながらも現役で女子美の洋画専攻へ入学されています。


大学4年の頃の作品
当時はこのシリーズを多く描いていたそうで、
現在のドローイングとも何処となく繋がりが感じられます。

大学では卒業制作の作品が奨励賞を受賞されていますが、榎本さんいわく疑問を抱きながら制作を続けていたこともあり、評判の高さとは裏腹に受賞に対しても「自分の作りたいものは、本当にこれなのだろうか」という複雑な思いがあったそうです。


女子美スタイル展での卒業制作の展示


大学院に入ってからは徐々に大きな油彩を描かなくなったと話されており、また作風にも様々な変化があったようで、試行錯誤をしている頃の作品についてもお話がありました。

大学院生の頃に制作された立体作品
当時、同期生から「榎本が変になっちゃった」と心配されたエピソードがあったそうです。

2009年の世田谷美術館区民ギャラリーでのグループ展
ここでも立体的な作品を展示されています。


2012年の女子美アートセンター準備室での個展「ヤマ ヒム アヌ」では油彩作品の展示に加えて、榎本さん自身が会場の一室でドローイングを描き続け、それを壁に貼っていくということを会期中続けられていました。

個展「ヤマ ヒム アヌ」会期中に在廊し描き続けられたドローイング
初めは真っ白だった壁面が、最終日にはドローイングで埋まっています。



また、榎本さんがメンバーの一人として活動している「泥沼コミュニティ」についても簡単な紹介がありました。当初は銀座7丁目や赤羽(東京)、塩尻(長野)、土湯(福島)など様々な場所に行って、ワンカップを飲みながら様々な話をするといったイベントを開催しており、2013年には女子美ガレリアニケにて活動アーカイヴと共に展覧会を行っています。

泥沼コミュニティの活動で築地に行った際の写真
ガレリアニケでの展覧会「遠浅/泥沼」の様子
アーカイヴ以外にも様々なイベントが会期中に行われていました。
泥沼コミュニティは今年に掛けて神奈川県相模原市の橋本についてのリサーチを進めており、関連したイベントやワークショップが「アートラボはしもと」などで開催されています。こちらについては、また別の機会に詳しくお伝え出来ればと思います。



レクチャーの最後では、群馬青年ビエンナーレでも受賞された小金井アートスポットシャトー2Fでの個展「話したくないこと 英語の勉強 布団を干す」についてのお話がありました。この作品は、家に篭るようになってしまった弟と、定年退職したあと特に使う予定もないのに毎日英語の勉強をしている父を題材にしており、榎本さんが実家に戻った際に夕飯を食べながら弟さんと長く話をしたことがきっかけとなったそうです。

来場者には自分の家にある本を持参してもらい、会場の好きな場所に置いていく代わりに、裏に文章が書かれたドローイングを持ち帰ることが出来るような仕組みになっていました。

小金井アートスポットシャトー2Fでの展示の様子
広いスペースにインスタレーションが展開されています。
父親が英単語を練習したノートで作った飾りや、家族の写真、
ドローイングや映像作品などが置かれています。



今回のレクチャーでは、この他にも映像作品などを一部上映して頂きました。数年前まで同じ女子美生でもあった榎本さんは学生にとって身近な存在でもあり、色々なアドバイスが得られたと思います。終了後も聴講生から個人的な質問を色々受けている姿が見られました。また、在学中から卒業後まで悩みながら作風が変遷していく経過や、制作以外にもプロジェクトへ参加したお話など、洋画専攻だけに限らず、後輩たちのこれからの制作の幅を広げてくれるような内容だったと思います。


榎本さんのサイトはこちらになります。
レクチャーの中で紹介された作品や展示、活動など
様々な写真も公開されていますので、ぜひご覧になってみて下さい。

2015年8月25日火曜日

芸術表象論特講 #5

芸術表象論特講 #5

6月3日に行われた芸術表象論特講、今年度第5回目のゲストは映画監督の深田晃司さんです。



深田さんは、昨年公開された監督作品『ほとりの朔子』で第35回ナント三大陸映画祭の金の気球賞(グランプリ)と第17回タリン・ブラックナイト映画祭の最優秀監督賞を受賞されています。また、過去にも『ざくろ屋敷』『東京人間喜劇』『歓待』などの監督作品が国内外の様々な映画祭で評価されています。

レクチャーでは、まず『ざくろ屋敷』の予告映像を上映しながらお話して頂きました。『ざくろ屋敷』は、19世紀フランスの小説家バルザックによる「人間喜劇」というシリーズの一つである小説『柘榴屋敷(La Grenadiére)』を、70枚ものテンペラ画でアニメーション風に構成した映画作品です。深田さんは中学・高校時代は美術部だったそうで、『ざくろ屋敷』の絵と美術は当時の同級生である深澤研さんが担当されています。2007年に公開されたこの作品は、海外から予想以上の反響があったとのことで、パリのバルザック記念館(バルザックが実際に住んでいた家)に深澤さんと共に招待され講演を行い、さらに現地では上映会と原画展が開催されています。(バルザックは熱心な愛好家や研究者も多く、通訳を通してトークをされたそうですが、向こうの方からフランス語が喋れない人が記念館に招待されたのは初めてだと苦笑されたエピソードがあったそうです)


深田さんは、小さい頃から「何かものを作りたい」という意識が強く、また映画を観るのも好きで特に70年代以前の映画をよく観ていたそうです。父親が映画好きで家に何千本とVHSテープがあったことや、当時ケーブルテレビが普及し始めたこと、そして読んでいた映画評論の本への関心などから、かなりマニアックな映画も数多く観たと話されていました。しかし、当時は映画を作る側に回るということは全く考えたことがなく、大学時代に偶然映画館で映画学校のチラシを見て、初めて“自主映画”というものがあることを知ったそうです。それをきっかけに大学在学中に映画学校に通い始め、20歳ぐらいの頃から自主制作映画を作り始めたとのことで、深田さんは21歳のときに初めての作品である『椅子』という長編の自主映画を制作されています。(実はこれはかなり無茶なことだったとのことで、本来ならば初めての作品では短編・中編映画から始めるものですが、深田さんはいきなり100分の長編映画を作ったそうです。また、自主映画にありがちな自分の身近な題材だけを描かずに、老人・女子大生・少年・主婦が出てくる群像劇を作ったせいで苦労したと話されていました)2005年に深田さんは「青年団」という平田オリザ主宰の劇団の演出部に入り、現在も所属しているとのことですが、実は深田さんは演劇は一本も作ったことがなく、主に劇団青年団の俳優の方たちと映画を作っているとのことで、いわゆる商業映画とは少し違ったルートで制作されてきたそうです。


自分一人で作品をつくることが多いアーティストと比べて、演者や撮影場所など
様々な不確定の要素がある映画制作の感覚について尋ねられた際に、深田さんは
「映画監督には様々なタイプがいて、中には完璧主義者の人もいますが、
自分は『偶然をどう生かしていくか』『いかに他者と向き合うか』と考えている」
と話されていました。



かつて映画は特権的な芸術であり、フィルムやカメラも高額で人件費も含めて1本作るのに何億円と費用が掛かるため、いわば限られたプロデューサーや監督だけが映画を作ることが出来たそうです。しかし、それが8ミリフィルムの普及によって、商業映画ではない「自主映画」という映画の種類が生まれ大林宣彦などの「映画作家」と称する人も出てきました。さらに「デジタル」という革命的なものが登場したことで、極端な話をすれば今ではiPhoneひとつでも映画を作ることが出来るため、特権的な映画監督の権威が崩れるという価値観の変化が2000年代以降に起きたそうです。そうした中で、深田さんたちの世代の映画監督には「誰にでも映画が作れるようになった。では、なぜあなたは映画を作るのか?」ということが問われるようになっているため、自分の世界観やモチベーションをしっかり持って映画作りに臨むことが重要であり、海外で戦うにはそこをぶれずに備える必要があると話されていました。



さて、ここまでの深田さんのお話を聞いていると、「自分の作りたい映画を作る」いわばアーティストに近い自主映画作品をちゃんと取り上げる人がいて、結果として何かしらの賞や映画祭への招待そして評価に繋がっています。深田さん自身はラッキーだったとも仰っていますが、実際にはどのようなことを意識しているのでしょうか?

深田さんによる2008年の映画作品『東京人間喜劇』は劇団青年団から助成金を貰い、半分自主映画のような感じで制作したとのことで、この作品はミニシアターではなく、劇団青年団が公演をする劇場にプロジェクターとスクリーンを設置してロードショーを行ったそうです。その際にユニジャパン(UNIJAPAN)という日本の映画・映像の海外展開の支援を行なっている組織の方を招待した結果、英語字幕を付けることを条件にライブラリに収蔵してもらい、そこから海外の映画祭のキュレーターの目に止まり、ローマ国際映画祭への招待に繋がったと話されていました。

自主映画を制作している人の中には、残念ながら作ることだけで満足してしまい、「それをどうやって観せるか」「いかに継続して創作活動を続けていくか」ということに意識が向いていない人も多いそうです。この点について、深田さんは演劇との関わりが大きかったと仰っています。劇団青年団に所属している関係で、若い劇団員や劇作家から色々話を聞いていると、劇団はある種、零細企業のようなもので、劇団員を抱えながらコンスタントに公演を行うために、戯曲を書いて小屋を抑え、宣伝をして観客を呼ばなければならない。その際に劇評家などにきちんと観てもらい、批評を書いてもらうことで次の公演に繋げる。こうした、いわば零細企業のような「継続するための意識」が劇団の人は非常に高く、深田さんも刺激を受けたと話されていました。



レクチャーの後半では、日本と海外の助成金制度の違いについてのお話を伺いました。深田さん自身も20代の初めに現場を体験してみようと、撮影スタッフとして早朝から深夜まで働き続ける過酷な労働環境を経験しており、こうした日本の映画業界の実態や助成金制度の問題、またそれに代わる寄付税制の提案などについて、ウェブサイト「映画芸術」にて『映画と労働を考える』というテキストを寄稿されています。

深田さんは日本よりもむしろ海外での上映が多いとのことで、海外の映画関係者と話をすると、彼らは自分の作りたいものを作るために必要な資金を集め、助成金にアクセスするためにはどうすればいいかきちんと意識をしているそうです。また、日本では自分の作りたいものを衝動的に数十万〜1000万円の予算で小規模に作ってしまうため、国際的な流れの中では日本の作家はかなり損をしてしまっている。そして20代の人に多くみられる、予算の少なさから自分の身近な人に手伝って貰うことは、いわば自分の持っている人間関係を消費しながら映画を作っているようなものであり、長くは続かない。と話されています。東南アジアやヨーロッパの映画監督は1本目の作品から1千万や2千万の予算を集めて制作する例もあり、また海外の国際映画祭やフランスなどの国では、外国人も対象にした新人監督に対する助成金が設けられており、そうしたことを日本の映画学校でもしっかり教えていく必要性を話されていました。


学生からの質問に答える深田さん


今回のレクチャーでは、この他にも関連した様々なお話をして頂きました。自身の作品についてだけではなく、深田さん自らの経験を通じて、学生がアーティストや美術家、あるいはキュレーターや研究者などとして社会に出て活動をする上で、必ず相対することになる予算・資金集めという現実的な壁や、映画業界だけに限らず芸術分野全体に共通する助成金制度などの社会的な問題について、深く考えさせられる内容でした。良い作品を制作することだけではなく、それを発表する上でどのように展開し次へ繋げていく、自由な制作を継続するための意識は、大学でも教えることが難しい大切なことだと思います。


深田さんの映画作品の公式サイトはこちらになります。

『東京人間喜劇』 http://human-comedy-in-tokyo.com/
『ざくろ屋敷』  http://lagrenadiere.jp/
『ほとりの朔子』 http://sakukofilm.com/

ウェブサイト「映画芸術」で連載された『映画と労働を考える』はこちらで読むことが出来ます。
http://eigageijutsu.com/article/141898866.html

「多様な映画のために。映画行政に関するいくつかの問い掛け」
http://eiganabe.net/diversity

2015年7月2日木曜日

芸術表象論特講 #4

芸術表象論特講 #4

5月27日に行われた芸術表象論特講
第4回目のゲストはプロマジシャンの南海子(なみこ)さんです。



南海子さんは何と女子美術大学の卒業生、それも付属中学・高校からという根っからの女子美生です。全国各地でのマジックショーへ出演以外にも、劇場版・スペシャルドラマ版『TRICK』、ドラマ『ジョーカー 許されざる捜査官』のマジック指導や、NHK教育『一期一会 キミにききたい!』、『「ぷっ」すま』などへのTV出演など、マジシャンとして様々なメディアで活躍されています。


今回のレクチャーは「マジックを魅せる」というタイトルのもと、普段使用している教室ではなく、ステージのあるスタジオ教室にて実際に南海子さんによるマジックショーを織り交ぜながら行われました。
 
暗転ともに教室の後方から登場した南海子さんは、ステージに上がりながら炎のマジックを披露すると、会場の雰囲気は一気に変わっていきます。続けて新聞紙を広げてビリビリに裂いて丸めた後、南海子さんがおまじないを掛けて広げると、何と新聞紙は元どおりになっており、そこには女子美生へのメッセージが!


簡単な挨拶のあと、客席から学生の一人にステージへ上がって貰い、コーラのマジックを披露して頂きました。ベコベコにへこんだコーラの缶が空っぽなのを確認した上で、学生が息を吹きかけると一瞬で缶の蓋がみるみるうちに膨らんで未開封の状態になり、会場からはどよめきの声が挙がります。そしてプシュッという炭酸の音と共に蓋が開き、学生が持つグラスの中に本物のコーラが注がれていきます。果たしてコーラはどこから湧き出てきたのでしょう?
コーラの缶が空であることを確認する聴講生
(この後、一瞬にしてコーラが開ける前の状態に)

続いてはパンのマジック。今度は別の学生に手伝って貰いながら、軽快なトークと共にショーが進んでいきます。まずはパンを紙袋に入れて学生に持っていて貰い、次にピーナツバターとジャムの瓶をそれぞれイラストが描かれた紙袋に入れて持たせます。そして、まずはステージの学生におまじないを掛けて貰い、次に会場の全員でおまじないを掛けます。すると2回掛けたので入れ替わったものが元通り…ではマジックにならないので、3度目の正直でもう一度おまじない。すると、別々の紙袋に入っていたはずのピーナツバターとジャムがいつの間にか入れ替わっており、会場からは拍手が溢れ出ます。
最後に残った「パンの袋」にも驚くべき魔法が...
さて、一番最初に学生に持たせた“パンを入れた紙袋”が残りましたが、これには果たしてどんなマジックが隠されているのでしょうか?(答えはぜひ南海子さんのショーでご覧下さい)



レクチャーの中盤では、スライドを使いながら南海子さんがマジックの世界に入るきっかけ、女子美付属そして大学時代のこと、学生時代に学んだ中でマジシャンになってから役に立っていることなどをお話して頂きました。

南海子さんは、幼少の頃からマジックが大好きだったそうです。大きな転機として付属高校の頃、杉並校舎からの帰りに新宿高島屋へ寄った際、おもちゃ売り場にあったマジックショップで、南海子さんが小さい頃に見て感激したマジックを実演販売している現場に遭遇し、そこから再びマジックの虜になったと話されていました。

付属高校三年生の時に、運動会の着付けリレー(女子美付属運動会の恒例競技で、先生をどんどん仮装させてパフォーマンスを行う)では、先生をプリンセス天功に仕立てて、最後に消してしまうイリュージョンを行い、見事に最優秀賞を獲得されています。


手作りのマジック道具で行われたイリュージョン、見事に真っ二つ。
(大掛かりなマジックはイリュージョンと呼ぶそうです)


また、学園祭の前夜祭では体育の先生を真っ二つにするマジックを披露。マジックショップの方に熱心にお願いし、特別に胴体切断マジックの仕掛けが書いてある古い本を見せてもらい、写した図面から装置を自分で手作りしたそうです。

他にも送別会で剣道の先生を竹刀で刺すイリュージョンを披露するなど、高校生の頃から大掛かりなマジックに挑戦していた南海子さんは、結構人見知りだったそうですが、マジックを続けているうちに段々人前で話したりパフォーマンスを行うことにも慣れてきたそうです。また、パフォーマンス自体は3〜4分で終わってしまうものの、コツコツと時間を掛けて事前準備をすることが楽しく、そういう点でも美術の作品制作と通じるところがあると仰っていました。

大学では工芸学科で陶芸を専攻しており、視覚心理学の授業が大好きで、単位取得後も何度も聴講されたそうです。錯視を利用した作品を陶芸でも制作されたことがあり、今回のレクチャーでも錯視を利用した「おみやげマジック」を学生にプレゼントして頂きました。また、マジシャンとして仕事する際に必要なチラシやポスターなどは、大学時代にコンピュータの授業で習ったPhotoshopやIllustratorを用いて製作されているそうです。

こうしたデザインは人に頼むと自分のイメージ通りに作るのが難しいそうです。
レクチャーの後半では、卒業後に再会した女子美付属時代の同級生で、
現在デザイナーをされている方に依頼した名刺も見せて頂きました。

イメージしていたもの以上の素敵な名刺に仕上げてくれたそうです。


前半に見せて頂いた「ピーナツバターとイチゴジャムのマジック」では、それぞれの紙袋にイチゴと落花生のイラストが描かれています。これは南海子さんによるアレンジで、元々は単純にピーナツの「P」とジャムの「J」のアルファベットが紙袋に書かれていたものを、子どもやお年寄りにも分かりやすくするためにイラストに改良されたそうです。既製品のマジック道具などのデザインは、自分のキャラクターや世界観に合わないものも多く、南海子さんは道具を見た時の印象を大切にして、使用する道具や小物にも気を配っていると話されていました。

今回のレクチャーのタイトル「マジックを魅せる」には、“見”ではなく魅了の“魅”が使われています。これは南海子さんがマジシャンの先輩から教わった言葉だそうで、マジシャンには段階があり、マジックを知る→マジックの仕掛けを知る→練習をする→人前で見せる→一通り演じられるようになるまでが出来てはじめて「見せる」、「見せる」から「魅せる」に昇格させるためには、自分が今まで積んできたマジック以外の要素が必要になるそうです。南海子さんがマジックの世界に入って10年経った今、美術の作品づくりと同じように、技法などをもう一度しっかりと基礎から勉強し直し、どうやって自分のものにして行くか、どうやって自分らしさを出して行くかということを日々考えていると仰っていました。


この他にも、各所にマジックの実演を挟みながら行われたレクチャーには、聴講生も引き込まれていました。一見すると美術やアートと距離があるようなマジックの世界ですが、プレゼンテーションの技術や話術、デザインや視覚的要素など共通点も多く、同じ女子美生として先輩でもある南海子さんのお話はとても参考になったと思います。


レクチャーの中でもお話があった、南海子さんの公式サイトはこちらです。
女子美の卒業生で、現在ウェブデザイナーとして活躍中の方が手がけました。
素敵なデザインと見た人を楽しませる仕掛けも多数あるので、ぜひ一度訪れてみて下さい。
http://namiko-magic.com/