2014年11月25日火曜日

芸術表象論特講#19

こんにちは。雨が降ると寒さが増して、もうすっかり冬なんですね。
11月5日におこなわれました、「芸術表象論特講」19回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、劇作家・アーティスト・PLAYWORKS主宰の岸井大輔さんでした。



レクチャーでは、岸井さんと演劇についてお話してくださいました。

岸井さんは中学校へ進学したときに演劇部へ入部しましたが、男子校だったために部員いなかったそうです。
部活に所属していると、いろんな劇団から部に招待券が送られてくるので、それを利用してお芝居を見に行っていたそうです。だいたい演劇部というのは部員がみんな仲良しで、演劇もみんなで
見に行ったりするものらしいのですが、岸井さんのところはそうではなかったため、招待券を自分のものに
出来ることを中学1年生のときに気づいてしまった。なので、2年生から組織的に集め、当時はオペラも歌舞伎も
招待券で見に行けたそうです。また、学校の近くに太田省吾さん(劇作家・演出家)の稽古場があり、よくそれも見に行っていたそうです。

演劇をするために、早稲田大学へ進学します。演劇を学べる大学は当時あまりなくて、早稲田でサークルに入ってというのが一般的だったそうです。
そのころから、美大に通っている友人が増え、そうした友達と一緒に展覧会も見に行っていたといいます。当時は、コンテンポラリーダンスとかがあまりなく(舞踏はありましたが)、現代アートの展覧会も現在のようにおこなわれているというので
はありませんでした。それでも、美大の友人とかと展覧会を見に行くことがあり、そうしたものを見ていて"演劇だけが古い”ということを思ったそうです。

岸井さんが大学を卒業した頃、世の中はバブルが弾けたときでした。演劇界には平田オリザが出てきて、小さな声で日常で起きていることをリアルにおこなう、そんな静かな劇が流行り始めます。まるで写実的な劇でびっくりした。演劇だけは遅れていると思っていたけれど、いきなり19世紀に戻ったかのような怖さがあったと岸井さんはおっしゃっていました。

音楽や美術にはそうしたことが起こりにくいのはなぜなのか。例えば、絵画ではニューペインティングなどがありますが、急に全員が風景画を描きだすようなことはあまり考えられません。音楽だったら、急にみんなががベートーベンみたいなのを作曲し始めるということもあまり考えられない。しかし、演劇では急に明日から日常を描き始めるということが起きてしまう。
そして、なぜ演劇だけ遅れていたのかと考えたとき、モダニズムが原因なのではないかと思った。絵画とは何か考えなくても、例えばバウハウスとかそういうところの人達が考えて、概念を提示してしまっている。一度、そうして提示されることで戻れなくなるということもあるが、そのおかげで、みんなが一斉にモダンへ戻るということはなくなった。音楽でも同じことがあり、例えばジョン・ケージは鳴っている音は全部音楽だという考え方を提示した。
そうなると、演劇とは何かということを考えるようになる。岸井さんは、そういう作品を作ることを決めたそうですが、これは思っている以上にとても大変なことをしなくてはいけない、ということに気がつきます。演劇とは何かということを決めて、その作品を作るとなると演劇運動みたいだけれど、周囲にそういうことをする友人はいなかったのもあり、1年くらい放置しました。しかし誰もそうしたことをおこなわないため、岸井さんは行動を起こしました。

演劇とは何か。岸井さんがたどり着いたのは「集団」でした。演劇は人間が必ず複数人いる。学校、宗教、地域、家族、都市、国家、人類・・・。集団があればそれぞれに演劇行為がある。演劇があるから人が集まってくる、集団があるから劇が生まれる力が強いと思ったそうです。
今、私たちは村でも都市でもない所に住んでいて、その場所には人が集まってくる状況が必要となる。その場所にあわせたコンテンツが出来てくる。そのコンテンツを作ることをしようと、岸井さんは思い、人が生きている所を調べ、そこの社会に合わせて場所を作り、その中で劇を作る・・・。32歳のとき、決意して外へ出て行きます。

まちで劇を作ろうと考えたとき、そのまちに実際に住んでみて作ろうと思いつきます。たまたま演劇を見に来ていたお客さんの中に、自分のまちはどうですかと声をかけてくれた方がいたため、2003年から2009年までは2・3ヶ月おきに違う町をフィールドにしていたそうです。レジデンスなどの施設を利用するようになったのはここ2年くらいなのだそうです。

岸井さんは、依頼されたまちへ行き、実際に住みながら活動をおこなっています。
2000年から2007年頃までおこなっていた「POTALiVE」(観客は駅で待ち合わせて、そのまちについて案内されながら散歩する。そのまちに住んでいる人々の行為を演劇に見るように作品化する)や、「創作ワークショップ」(12回の講座を受けた人は誰でもその手法で公演をやっていい。これまでに150人くらいの卒業生がいます)。2005年から2010年までおこなった「LOBBY」(そのまちにとっての入り口を創る。俳優やダンサーなどの人達がそのまちを一緒にめぐったり案内したりする)。また、東京アートポイント計画の一貫としておこなわれている「東京の条件」(ハンナ・アーレント『人間の条件』を戯曲とみなし、東京を舞台に東京に上演可能なようにあてがきをして「公共の戯曲」を創る上演時間3年間の演劇)、「会議体」(150日間に開かれた会議を300回開催する)など、これまでの活動についてお話してくださいました。


演劇が集団である、という岸井さんのお話を聞いていると、生活を営んでいる人が実は何かしらの演目をしている、すると私たちもなんらかの演目を演じているのかも・・・。となどと考えてしまいました。演劇といういわゆる固定概念を越えて活動されている岸井さんの活動は、学生たちにとっても刺激になったのではないでしょうか。


岸井さんのHPはこちら

ブログもあります


それでは。

2014年11月21日金曜日

芸術表象論特講#18

こんにちは。もうすっかり寒くなって、学校の前にある公園がかなり色づいていて綺麗です。
10月15日におこなわれました、「芸術表象論特講」18回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、建築批評家・RAD主宰の川勝真一さんでした。



近代建築といえば、白くて四角く、窓が規則的で装飾が少ない・・・という様式とされます。これは1932年におこなわれた「近代建築:国際展(MODEN ARCHITECTURE: INTERNATIONAL EXHIBITION)」でキュレーターを勤めた、ヘンリ=ラッセル・ヒッチコックとフィリップ・ジョンソンの共著『インターナショナル・スタイル』によって示された特徴です。そのタイトルがそのまま近代の建築スタイルの名称として有名になりました。
時代は飛んで、1964年に「建築家なしの建築展」がおこなわれました。それまでの展示は、ある意味最新の建築が対象として扱われて来たのに対し、この展示では、建築家が関与しない市井の人たちの手による建物に注目が集まりました。
さらにポスト・モダンと言われる時代へ入ると、インターナショナル・スタイルからいかに距離をおくかということが模索されるようになります。
1980年、ヴェネチア・ビエンナーレ建築部門の第1回展「THE PRESENCE OF THE PAST」がおこなわれ、過去の様式や地域の文脈というものを、近代建築の中にどうやって組み込んでいくのかが目指されました。この展示では、近代建築の白くて装飾がないというストイックなものではなく楽しげで豊なものを、普遍的なものではなくその場所らしさをどうやって作っていくか、様々な様式をとりこんだ折衷主義を目指すという3つの特徴がありました。
1988年には、1932年にインターナショナル・デザインを提唱したフィリップ・ジョンソンは、「DECONSTRUCTIVIST ARCHITECTURE」という展示をおこないます。これはより純粋に形態操作にフォーカスされており、折衷主義に対抗するものでした。
1995年「Light Construction」というミニマムで透明感を持った建築を紹介する展示がおこなわれます。コンピューターの普及やデジタル時代においてディスプレイで建築を捉える時代に、どういう建築がふさわしいのかという様式として捉えようとしました。
一方、日本では2000年に「空間から状況へー10 city profiles from 10Young Architects」(ギャラリー間)という若手の建築家を紹介するインスタレーション形式の展示がおこなわれました。1990年代の建築は、哲学的で難解な言説と奇抜な造形物を作るというイメージを社会に植え付けたが、これに対してもっと建築を身近でカジュアルなものとして捉えることを目指したものでした。
2008年になると「風景の解像力ー30代建築家のオムニバス」(INAXギャラリー)として、「空間から状況へ」展の次の世代となる1970年代生まれの若手建築家の紹介する展覧会がありました。ここではどういう解像度で風景を見るかということが重視され、非常に繊細で、感覚的な表現を中心に様々なアプローチが示されました。
2010年、「建築はどこにあるの?ー7つのインスタレーション」がおこなわれました。これは東京国立近代美術館で開催された企画展示です。日本の「国立」の美術館で建築の企画展示がおこなわれたのは初めてのことでした。25年前に世界を巡回している建築の展覧会を開催したことがあったそうですが、それは日本オリジナルの企画展ではありませんでした。展示は、世界的に評価されている日本人建築家を幅広く紹介しました。日本人建築家だけというのも、初めての試みだったそうです。そもそも、日本には「建築」という概念が昔からあったわけではありません。日本の建築界では、状況なのか、風景なのか、現象なのか、環境なのか・・・という問いをずっとおこなってきたように思われます。建築とインスタレーション以外のコンセプトが存在しない展示だったそうですが、思考法をより良く理解し、インスタレーションの中にどうやって建築というものを見つけていけるか、建築というものを定義するのではなく、各人が定義を見つけだすということを重視していました。
再び海外へ目を向けると、2010年から2011年に「Small Scale, Big change New Architectures of Social Engagement」がMoMAでおこなわれました。この展示は問題解決のための本当のニーズに合ったものはどいうものか、というのをとりあげた「DESIGN FOR THE OTHER 90%」(アメリカスミソニアンノクーパーヒューイット国立博物館、2007年)という展示をベースにしていました。展示では、充分なサービスを受けられていないコミュニティーのために地域的な必要に応じた建築プロジェクトを紹介しました。それまで、建築はどういう様式性を現代に持つかというのを問題にして来ましたが、それが扱えなくなってきた。建築家という専門家だけではなく、そうではない人間が携わるにはどうすればいいのかという問題へシフトしていきました。

近代建築について見てきた後で、川勝さんは若手の建築家を紹介してくださいました。
403 architecture dajibaは浜松で活動しています。自分たちの半径500mという限定されたエリア内でプロジェクトを続けています。地域から出た廃材を用いて小屋を作ったり、町づくりの提案などをおこないます。地域の物理的なものだけではなく、その場所やそこに住んでいる人を含めて、限定したエリアの中でどのような実践が出来るかを考えています。

連勇太郎(モクチン企画)は、「ネットワーク アーバニズム」という言葉で、建築デザインを資材に出来ないかという、アイデアやデザインをどうやってモノのように扱えるか、専門家だけではなく様々な人が交換したり共有したりできるかをテーマに活動しています。建築のアイデアをレシピ化することで、建築家だけが関わるものではなくて、どれだけ建築というものに主体的に関わっていけるかということを、システムとして都市の中に展開できるかということを考えています。

そして、川勝さんが所属しているRADRESEARCH for ARCHITECTURAL DOMAIN)は 京都を拠点に5人(川勝さんを含む)で活動しています。パフォーマティブなリサーチとアーカイブ化ということをおこなっているそうです。建築のデザインはしていませんが、展覧会やワークショップを企画しています。ある状況や場所に介入していき、いったんその仮説的な仕組みを作ると、いろんな出来事がおこってくるとおっしゃいました。外からの出来事を感知するだけではなく、一度状況を作り出した上で、そこでどういうことが起こってくるのかということを、その場所に対する問いかけみたいなものを見つけていくということが大事なのではないかと思っているそうです。
このRADは、川勝さんたちが大学院を修了してからすぐに立ち上げました。活動を始めるにあたり、自分たちの正しい問いを見つけるためのレクチャーができないか。そこから「Quwry Cruise」という企画をおこないます。活動拠点の場所はとても狭く、この限られたスペースで、出来るだけ頻度を少なくして内容を濃くし、受講料をとれる仕組みでゲストを呼んでレクチャーなどをおこないました。建築ってなんだろうという自分たちの問いに対して答える場所を見つけるために、「radlab. exhibition project」を企画しました。建築家の人たちに限られたスペースで自分の思考やコンセプトをどういう形で落とし込むか、その人にとって建築とは何かということを作品にして展示しました。

また今年このレクチャーに来ていただいた、イ・ハヌルさんと山田麗音さんがキュレーターとして展示した施設「HAPS」は、RADでおこなった町家改修ワークショップによって作られた施設でした。ワークショップには100名以上の方が参加されたそうです。ここでは、どうやって改修したかを「なるべく隠さない」ようにして、またこの町家の改修を通して別の町家の改修を促すツール作りがおこなわれました。

他にも、廃村になった集落に関するワークショップなども紹介していただきました。

近代建築についてMoMAを中心に見てくると、MoMA主導で建築の流行が作られ、海外では様式を問題としていることがわかります。また、日本には建築の基礎がないために、様式以前の問題に関心があることがわかりました。そして現在では、建築そのものだけ、専門家そのものだけではなく、その周辺にいる住む人、地域の人、地域そのものといったつながりに「建築」の意義を見いだそうとする活動が若い人たちからも起こっているようでした。

普段、美術という場所にいると、建築は少し遠い存在のような気がしてしまいます。それはこの大学に建築の名を掲げた専攻がないからかもしれません。おそらく、それだけではないにしろ、建築が抱えてきたことと、美術が抱えてきていることは案外同じものかもしれません。学生たちも、そうした発見があったのではないでしょうか。

RAD

403 architecture dajiba

モクチン企画


それでは。