2014年7月28日月曜日

芸術表象論特講#12

こんにちは。暑い毎日で、水分補給に気をつけています。
7月9日におこなわれました、「芸術表象論特講」12回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、美術制作家の市川裕司さんでした。



市川さんは、多摩美術大学大学院日本画領域を修了された後、そのまま副手・助手として6年間日本画研究室に勤務されていました。今回のレクチャーでは、学生の頃の作品から、1年間行っていた海外研修についてお話ししてくださいました。
現在も埼玉県に住んでいる市川さん。学生の頃は、大学まで2時間かけて通学されていたそうです。学生の頃の作品には、通学途中で見る景観を作品に取り入れることが多かったようでした。始めは写生的な表現でしたが、4年生頃になると次第に抽象性が増し、卒業制作は抽象であることを強く自覚して制作されたそうです。画面を構成する要素を物理的な質に置き換えるという試みから、材質に対する興味が急速に深まっていきます。

大学院へ進学し、徐々に現在の作風に近づいていきます。
助手として勤務されていた頃、コバヤシ画廊で展示がしたいために、10mある作品を制作。業務が終了した後、校内の一部を利用して写真を撮影。10時間かけて撮影したため、終わる頃には朝になっていたそうです。コバヤシ画廊でプレゼンテーションし、念願の展示をおこなったそうですが、このときに展示した作品はまた別に制作したものであり、校内で撮影した作品は写真撮影のみで、実際にどこかで展示することはしなかったそうです。

2012年、五島記念文化賞美術新人賞を受賞し、同年729日から、ドイツのデュッセルドルフへ1年間、五島記念文化財団の助成を得て研修に行っていました。レクチャーでは滞在中の日記をもとに、いろいろとお話してくださいました。

市川さんはこれまで旅行など含め国外へ渡った経験が全くなく、この研修が初めてであり、そのまま長期滞在することになったそうです。渡航のスケジュールは自分で決められるようになっており、また受け入れ先も自分で決めることが出来るそうです。市川さんがドイツを選んだ理由としては、制作している作品は日本画を経緯に持っていながら、現代美術にも足を踏み入れている。海外に行くならば現代美術が元気な場所が良いと思い、いろいろ調べてドイツに決めたそうです。日本で作り上げてきたあらゆるしがらみを一度断ち、今までの自分とはまったく違う組み立て方が出来るという場所でスタートしたいとも思っていたそうです。
始めの1ヶ月は、ドイツ語の勉強のために語学学校の寮に滞在しました。日本では蓄積のあった英語をのばすことに徹し、ドイツ語の勉強はあまりしていなかったそうです。
最初に制作したのは、ビールの王冠をビール瓶の中に封入した取り組みでした。ドイツはビール大国です。日本では缶ビールですが、ドイツは瓶が主流のようで、リサイクルのために瓶をお店に持って行くと、換金してくれるシステムがあります。しかし、瓶の蓋として付いている王冠はそういったリサイクルの対象から外れているため、道のいたるところに落ちているそうです。瓶を大事にする一方で、ぞんざいに扱われるこの王冠に対して、文化の見落しを感じたそうです。そしてこれがひとつのアートにならないかと拾い集めたところから制作に至ったとのことでした。

国外に渡ることにあたって市川さんの中には、境界線への問題意識がありました。日本は島国なので、他国と地続きになっておらず隔離されたイメージがあります。しかし、ドイツなど大陸に属する国では、国同士を隔てた境界線がずっと身近に存在しており、他人(他国)との距離がどうあるのか注目していました。
そして市川さんはドイツに来た当日、夜明け前に滞在した部屋の窓に一枚の箔を押すことで自身と外界の境界線を意識させるという行為を、渡航におけるセレモニーとしておこないました。


それ以後も、滞在中は境界線というテーマを市川さんは意識し続けます。
その問題のひとつとして、ドイツの多くの家屋に使用されて、自然と人の生活を仕切るレンガに着目します。ある日、公園でレンガを粉砕する作業をおこなっていたところ、警察の尋問にあってしまったそうです。どうも作業をしていた場所が、よく麻薬の取引に使用されている場所であって、白昼堂々と粉体を作っている様に疑いをかけられたらしいのです。その時事情を知らなかった市川さんは、一生懸命に自分たちはアーティストでこうして絵の具を作っているんだ・・・というふうに説明して、なんとか納得してもらったそうでした。結局、30種類の顔料を作り上げたそうです。


学生時代からどう表現が変わっていったのか、とても丁寧にお話していただきました。また、助成を得て滞在した研修の様子も、当時の写真を踏まえて詳しくお話していただきました。研修に行くまで国外へ行ったことがなかったのに、いきなりドイツへ長期滞在するのは、すごいことだと驚きました。1人の表現者が、どのようにその表現に変化がおきたのか、学生にとって、とても刺激になったのではないでしょうか。


市川さんの作品などは、こちらから見ることができます。


それでは。

2014年7月22日火曜日

芸術表象論特講#11

こんにちは。大学に住んでいたツバメたちが巣だってしまい、なんだかさみしいです。
7月2日におこなわれました、「芸術表象論特講」11回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、神奈川芸術文化財団学芸員の中野仁詞さんでした。



中野さんは、先日発表された2015年開催の第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の指名コンペティションにて日本館キュレーターに選出されました。レクチャーでは、ヴェネチア・ビエンナーレのコンペティションだけではなくこれまでの活動も含めてお話してくださいました。

中野さんは1999年から神奈川芸術文化財団に勤務しています。それ以前は、そごう美術館に勤務されていたそうです。演劇部門を担当した後、神奈川県立音楽堂で音楽事業制作を経て、2006年より県民ホールギャラリーを担当。初めての現代美術の展覧会企画は、塩田千春さんの個展「沈黙から」(2007)でした。塩田さんといえば、沢山の糸を空間に張り巡らすインスタレーション作品などがあります。もともと、音楽堂で勤務をしていた頃、塩田さんの美術作品と文楽を用いてシンプルなオペラ形式の演目をおこなえないかと、塩田さんと一緒に考えていました。その後、企画を進めていく中で県民ホールギャラリーへ転属となります。場所は変わってしまいましたが、美術の分野で何かできないかと考えたのが個展だったそうです。この展覧会のお手伝いとして、女子美生が関わることになります。きっかけは、年に1回開催される神奈川県美術展という大規模な公募展でした。その搬入に女子美の立体アートの学生たちがトラックでやって来たので、知り合いの非常勤講師の方に協力をお願いして先生に引き合わせてもらい、立体アートの学生を中心に展覧会を手伝ってもらったそうです。この展覧会以降、女子美の学生が企画展のお手伝いをさせていただくようになりました。参加学生の中には、毎年参加する学生もいたそうです。県民ホールギャラリーで企画展をおこなうときは、舞台の美術さんや大道具さんといった方々と展覧会を作り上げるそうです。パフォーミングアーツの世界では、会場を1日単位で利用することが多くあります。そのため、限られた時間の中で、トラックで資材を会場へ運送し、大道具を組み立てて、公演が終わればそれをばらしてトラックへ積み込まなくてはなりません。こういった経験を積んだ舞台の方々は、段取りの組み方が非常に上手く、また現代作家の要望に応えようとする柔軟さがあるそうです。

ヴェネチア・ビエンナーレのコンペティションについて、参加の経緯や、企画などもお話してくださいました。
ヴェネチア・ビエンナーレは、イタリアのヴェネチアで開催される芸術の祭典です。音楽、映画、演劇、建築、美術といった部門に分かれています。日本が美術展に公式に参加するようになったのは、1952年からです。展覧会は各国で所有している建物に展示をします(ただし、所有していない国もあります)。日本館のキュレーターを決めるのは、国際交流基金です。
国際交流基金には、国際展事業委員会というのがあります。まず、委員6名が選んだキュレーターに対して、「コンペ参加者に選出されましたので○月○日までに企画書を提出してください」と連絡が届くそうです。その企画書は、2ヶ月ほどで作成しなくてはならず、企画を作る時に時間をかける中野さんは、とても大変だったそうです。自分以外に誰が選出されたのかは伏せられており、プレゼンテーションの際も他のキュレーターとの時間をずらすなどされ、最終結果が出るまで極秘事項となっていました。中野さんと塩田さんは、誰が選出されているかを想像しあったそうです。

中野さんは、短い期間で企画を考えなければならない状況で作家を選ぶとき、付き合いが長くてお互いがわかり合えている人とやりたいと思ったそうです。作家とキュレーターの関係は、得意とするところとそうではないところ、お互いが補填し合うことが大事だそうです。展示空間をどう捉えているかも作家とキュレーターでは違うので、お互いが十分に話し合ってやっていくのが重要だとおっしゃっていました。それに合っていたのが、塩田千春さんだったようです。

提示した企画「《掌の鍵》- The Key in the Hand-」展は、鍵と赤い糸を用いたインスタレーションとなっています。
作品の根底には「人とのつながり」があります。今回は、震災の後ということもあり、塩田さんのテーマである「人とのつながり」と、「生と死」をコンセプトに展覧会を企画されました。震災を経た現在、「生と死」となると、「死」ばかりに注目されたり、暗い部分が強調されてしまうのではないかという懸念がありました。しかし、塩田さん自身が身近な人を亡くしているということもあり、「死」の体験をバネに「生」を感じることのできる力強い作品に出来るのではないか。赤い糸も、暗いイメージだけでなく、「人とのつながり」を表すモチーフになるのではないかと考えたそうです。
実際には、天井から大量の赤い糸を吊り下げて、その先に人が使っていた鍵を結びつけます。下には私たちの掌を表した2艘の舟があり、天からそそがれる温もりや記憶をもった大切な鍵を受け止めます。鍵を受け止めた舟は記憶の中を進んで行きます。地下のピロティには、子どもの手が鍵を持った写真と、幼い子どもたちに生れてくるときの話を尋ねた映像を投映する予定だそうです。地下のこれから記憶を積み重ねて行く子どもたちが、1階の数多の記憶を支えているということを表現しているのだそうです。


今回のレクチャーで、空間に囚われず作家の作品の持ち味を引き出すキュレーターの仕事を垣間見れたのではないでしょうか。来年のヴェネチア・ビエンナーレが楽しみです。現地に行ける学生は、是非その眼で見て体感してもらいたいと思います。



公益法人 神奈川芸術文化財団

ヴェネチア・ビエンナーレについて詳しいことはこちら
国際交流基金
※実際にコンペティションに提出した企画書(全選出者分)が公開されています。

「《掌の鍵》- The Key in the Hand-」展で使用する鍵を集めています。
※不要になった鍵に限ります。詳しくはこちらでご確認ください。

それでは。

芸術表象論特講#10

こんにちは。雲の様子が地域で違うのを見て、びっくりしています。
6月25日におこなわれました、「芸術表象論特講」10回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、アーティストのAya Koretzkyさんでした。



Ayaさんは東京生まれで、お父さんが日本人、お母さんがベルギー人です。1992年に両親がポルトガルへ移住することを決め、それ以降はポルトガルに住んできました。
リスボンの芸術大学では絵をはじめ、写真やドキュメンタリーなどの手法も習ったそうです。在学中ビデオアートや写真の作品を作り、映画の授業で先生に作品を評価してもらったことがきっかけで、映画の表現をしていきたいと思ったといいます。
卒業後、最初はドキュメンタリー、その後は違う映画監督と仕事をし、さまざまな作品に参加しました。撮影から編集、色補正といった技術を、所属していた会社で学びました。
映画という手法を使うのは、最初に先生に作品が褒められたこと、これまで写真やビデオで表現したことを入れることが出来るということが気に入っていること、そしてAyaさんが言いたいことがすべてが映画の中に入れることができるからだとおっしゃっていました。

レクチャーでは、Ayaさんの作品「山の彼方」を少しずつ見せていただきました。
この作品は、Ayaさん一家のポルトガル移住が軸になっている作品です。
はじめから、自身を題材にした作品を作るつもりはなかったそうです。2007年、別の撮影のために渋谷を訪れていました。そのとき、幼い時の思い出を撮影したいという気分で、日本人の兄妹を撮影していきました。1ヶ月間の撮影を終え、ポルトガルへ戻り編集作業に取りかかりました。その作業の際に編集をしてくれた人から、どうしてこの映画を作りたいのか尋ねられたそうです。その質問がAyaさんの心に引っかかり、どうしようか悩んだ末、自分に対してもっとはっきりしたほうが良いと思い、プロジェクトを思い切って変更しました。それまで撮影していたプロジェクトでテレビ局に助成金を申請していたのですが、変更することが自分の正しい道だと思い、ディレクターに思い切って説明したところ許可を貰うことができ、映画を作ることが出来るようになったそうです。

「山の彼方」はドイツの詩人カール・プッセの「山のあなた」からきているそうです。ポルトガルへ移住したため、それ以降Ayaさんにとって日本との関係はお父さんでした。お父さんに教えてもらったのが「山のあなた」で、よく一緒に歌っていたとのことです。
実際には見ませんでしたが、映画の最後にはAyaさんのお父さんが「山のあなた」を歌っているそうです。
撮影は1人でおこない、カメラの上にマイクをセット。ときどき手伝ってもらったとおっしゃっていましたが、ほとんど1人でこなしたそうです。音楽も、親しみを出すためにAyaさん自身がピアノを弾いたり、手紙の朗読をしています。
この作品は、自分の真実を探すために作ったとおっしゃっていました。制作している間に、ロシアの映画監督タルコフスキーの本の中に、「どの芸術家でも真実を探している。それが本当の芸術家でなければならない」と記されていたそうです。このフレーズはAyaさんにとってとても大切で、いろんな“なぜ”を探さなければならないと思わせてくれているそうです。Ayaさんのこれまでの人生の中で何が一番引っかかっているのかを考えたときに、日本から出てなぜポルトガルへ移住したのか、おばあさんや小学校の友だちと別れなければならなかったのか・・・。
この映画は、自己心理分析的な、そのような作品となりました。自分の考えること感じることが、人生に対してとても役にたったそうです。この映画を作ることは自分にとってだけではなく、自身の両親にとっても大事なこととなりました。この制作のために、今まで聞けなかったことを、制作を理由にして聞くことができたからだとおっしゃっていました。

作品は、さまざまなフェスティバルに呼ばれ賞も8個頂いたそうです。そうして選ばれるということだけではなく、見た人たちが直接話にきたり、暖かい言葉をかけてくれたこと、国籍とかを越えて、見た人が自身のことにも見えたと言っていたりしたそうです。映画がいろんな人に気持ちをわかってくれるということが、とても大事だとAyaさんはおっしゃいました。

今後は、自身のおじいさん(ロシア系)がどういうふうにロシアを出て、どのような道のりをたどったのか。おじいさんはロシアを出てから、お母さん(Ayaさんの曾祖母)と手紙のやりとりをしていただけで、二度と再会することはありませんでした。残された手紙などをもとに映画を作りたいとおっしゃっていました。

自身の人生で引っかかっていたことを、制作を通して知っていくことは、簡単なことではありません。わかることがすべて、良いことだとは限らないものです。Ayaさんは、自分と向き合う作品を作ることがこんなにも難しいとは思ってもみなかった、というようなことをおっしゃっていました。それだけ、自分と向き合い形にすることは大変なことでもあることを、学生も感じたのではないでしょうか。

ここから「山の彼方」が少しだけ見れます。

それでは。

2014年7月11日金曜日

芸術表象論特講#9

こんにちは。建物の外へ出ると、すごく暑くてびっくりします。
6月18日におこなわれました、「芸術表象論特講」9回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、杉田敦先生(本学教授)でした。



杉田先生は、1週間ほどポルトガルを訪れていたそうです。
レクチャーでは、杉田先生とポルトガルについてお話していただきました。

先生には、ポルトガルに関する紀行本があります。『白い街へ リスボン、路の果てるところ』(彩流社、2002)と『アソーレス、孤島の群島 ポルトガルの最果てへの旅』(彩流社、2005)です。2010年、日本ポルトガル修好150周年を記念して、両国の交流に功績のあった日本人へ勲章が贈られました。杉田先生は、ポルトガル美術を紹介した功績が認められて、"de Ordem do Merito"(メリト勲章)を叙勲されました。実際に頂いた勲章をこの日は持ってきていただき、学生たちに見せていただきました。

杉田先生はこれまで、20年で30回程ポルトガルを訪れているそうです。そのきっかけは、ある映画でした。それは、「白い町で」(1986)という映画です。この映画は、ブルーノ・ガンツ(後に「ベルリン・天使の詩」で有名になります)が扮する乗組員の貨物船が、ポルトガルのリスボンに流れ着く。乗組員は町へ降りていき、そのまま町へと飲み込まれてしまう。乗組員は動画を自撮りしながら歩いているので、時折その映像が映し出されます。この町への見込まれるシーンがとても魅力的だと、杉田先生はおっしゃっていました。

この映画を見てから、なんとなくポルトガルへ行ってみたいと思ったのが最初だったそうです。実際に訪れてみると、いくつか気になるものに出くわしました。まずは、町の白い壁にある帽子をかぶった男の人のシルエットのグラフティが、いくつもあることでした。今はそんなにないようですが、先生が訪れだした初期の頃は、よく見かけたそうです。この人物は、フェルナンド・ペソナといい、ポルトガル出身の詩人・作家で20世紀初頭に活躍していました。彼のすごいところは、60あるペンネームを使い分けて詩や文章を発表していたことです。それも、ただの名前ではなく、名前1つひとつに誕生日、職業などの人格的要素が決められていたことです。彼は、現代の哲学者たちに影響を与えました。
次に建築です。ポルトガルには、実に魅力的な建築が多く存在しているそうです。その中でも、アルヴァロ・シザの建築に出会いました。そして、彼の展覧会をしたいと思い、横浜のポートサイトギャラリーで実際に開催したそうです。当時は面識の無かったアルヴァロ・シザに建築家としてではなく1人のアーティストとして展覧会をしたいと手紙を書きました。ぜひやろうと返事があり、先生はアルヴァロ・シザの事務所へ通い、膨大なドローイングを選定し日本へ運んだそうです。
こうしたアーティストたちの存在や作品を知っていくことで、また別の展覧会を開催するにいたります。

2010年、女子美アートミュージアムJAMで「ポルトガル現代美術展ー極小航海時代ー」という展覧会を杉田先生は企画されました。作品を持ってくるのは大変なので、主に映像作品を展示しました。展覧会のタイトル“極小航海時代”としたのは、かつて大航海時代を築いてしまったコロンブスやマゼランとかが、日本のイメージとは違いポルトガルやスペインではタブーとされあまり触れられて欲しくない状況にあり、それを少しもじったそうです。この展覧会は韓国総合芸術大学の美術館へ巡回しました。関連企画として、出品アーティストのジョアン・タバラや映画監督のペドロ・コスタに女子美へ来ていただきました。


杉田先生は、以前からポルトガルの写真を撮っていたそうで、澁谷のパルコにあるロゴスギャラリーから、写真の展覧会と出版をしませんかと話があり、モノクロ写真の展示をしたそうです。この後、オルタナティヴなスペースでも展示がしたいと思い、写真を一回りサイズダウンさせ、2点ほど額装して、『白い街』を装幀家に頼んで豪華本にしてもらったものを展示したそうです。そして、今年度中に写真集を出版する予定になっているため、その撮影も兼ねて今回ポルトガルを訪れたとおっしゃっていました。

なんとなく吸い込まれて、どんどん奥へ行ってしまうような、そんな町がポルトガルのリスボンなんだそうです。見せていただいた映像の中にあった、狭い住宅の間を縫うように走っている路面電車など、どことなく不思議な魅力を感じます。杉田先生は、他の文化とふれあうことは自分自身が成長できることだと思う、無理して行くことはないけれど、訪れたときに学ぼうとするのではなく、呼吸するかのようにしてほしいと思うと、おっしゃっていました。これから外へ出て行く学生も、その予定が未定の学生も、自国以外の文化によりそう大切さを知れてたのではないでしょうか。


杉田先生の紀行本についてはこちら
『白い街へ リスボン、路の果てるところ』
『アソーレス、孤島の群島 ポルトガルの最果てへの旅』


それでは。