2014年5月12日月曜日

芸術表象論特講#1

こんにちは。すでに5月になり、新入生が少しずつ学校生活になれてきているようです。遅れましたが、今年度もよろしくお願い致します。
早速ですが、416日におこなわれました、「芸術表象論特講」1回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、美術史家のミカエル・リュケンさん(フランス国立東洋言語文化大学日本語学部教授)でした。
41920日に日仏会館で開催された「日仏翻訳交流の過去・現在・未来」のパネリストとして出席するために来日されたリュケンさん。ジュネーブで生まれ、パリで教育を受け、フランス語・英語・日本語を巧みに話されます。レクチャーでは、「化け物絵としての『麗子像』」というテーマで、お話してくださいました。



麗子像といえば日本では近代美術の書籍をはじめ、社会の教科書にも掲載されており、誰でも一度は見たことのある絵画作品だと思います。今回は、この麗子像の作者である岸田劉生の関心ごとと、麗子像についてお話してくださいました。
画家としての岸田劉生は、麗子像をはじめ、《道路と土手と塀(切通之写生)》といった作品が有名かと思います。しかし、劉生には「お化けの夢」(1923年)や「ばけものばなし」(1924年)といった、化け物についての論文を残していました。また文章だけではなく、化け物絵のようなものも描いていたそうです。東京国立近代美術館のコレクションには、《ばけものづくし》(1925年)といったシリーズの絵も所蔵されているそうです。なので、劉生は画家としても評論家としても、化け物という課題に対してとても関心をもっていたそうです。
 明治時代、東洋大学創立者である井上円了が、妖怪と超常現象の意味を根本的に変えました。井上が言う「妖怪学」の目標というのは、あらゆる進歩や現象を実証主義的に解明することではありませんでした。井上にとって妖怪は、神話及び伝説または化け物絵に限った文化的なモチーフだけではなく、幻覚、遺伝などの人間のよくわからない現象や心を乱す全ての要素を補完するために妖怪という言葉を使用していたといいます。つまり、妖怪は一種の想像であり、頭の中に浮かんでいる漠然としたイメージでした。しかし、このイメージというのは井上の考えによると良くないものなので、頭から出さなくてはならない。そのために、理論と理想への意志以外には他の方法はありませんでした。文明開化は理性主義と同じと考えていた井上には、美術も理性に従わなければならない分野として、想像力や本能に対して無理に刺激を与え続けるものではないという考えがありました。
心を満たすイメージを完全に忘れる、井上の考えでは美術は「失念術」のひとつでありました。
その美術に対する見方を根本的に変えたのは、白樺派(19101923年まで刊行されていた文芸雑誌『白樺』を中心として活動していた作家たちや思想)の若い作家たちでした。その中でも、柳宗悦が19113月の『白樺』に発表したルノアールの論文(「ルノアールとその一派」)から、柳の美術の理想を考察しました。また、柳は『白樺』に「新しき科学」という論文も掲載しました。ここでは、心霊の物理的現象や幽霊屋敷など奇妙な話を詳しく紹介しました。超常現象を前にして、井上は奥の奥にある心理を求めましたが、柳は科学にも美術にも大自然の心の新しい消失を求めました。柳には、目の限界を超えて妙な力に働かせた世界があり、妖怪がうごめく世界があるという、無意識の中の意識があったようです。
では岸田劉生はどうだったのか、「ばけものばなし」から考察してみました。劉生にとって化け物とは、明治時代の啓蒙主義の影響で単に絵画的モチーフであり、美術とイメージの本質を考え直すための良い材料になるのではという意識があったのではないかと思われるそうです。
「ばけものばなし」からは、劉生は化け物が人間の神秘的要求、死に対する恐怖本能から生まれる精神的な要素であることを前提としたうえで、化け物はどう表現されてきたかという課題に集中し、その存在自体の是非を問うことはしませんでした。化け物というと、変身したりゆるゆると形が変わったりする、形がきちんと定まってない、無形態なモノを指して、普段そう呼ばれているものと全く違う様相のもとに表れることもあります。化け物は化け物みたいなものだけではなく、どこにでも宿っているものであり、これが劉生たちが再発見した重要なポイントとなります。
化け物に関心があった岸田劉生の代表的な絵画作品、麗子像。これは約12年に渡り自身の娘である麗子をモデルに制作された、70点ほどにおよぶシリーズ作品です。よく見かける麗子像といえば、東京国立近代美術館所蔵の《麗子微笑(青果持テル)》(1921)だと思います。このシリーズの最初は、写実的な《麗子肖像(麗子五歳之像)》(1918)かと思っていましたが、リュケンさんは、麗子が生まれる4ヶ月前に妻の蓁の妊婦の姿を写したものが最初の作品として見てもいいのではないかとおっしゃいました。ここに描かれているのは、生れつつある新しい命の印、すなわち想像の母体だと言います。その作品の延長として見た麗子像は、この世の無情の表象のようなものに過ぎないのではないかと思われるともおっしゃっていました。
麗子像は、タイトルに彼女の年齢が記されているものもあり、シリーズの全体を通せば、自然的、生物的時間とそれに対立する人間的、記念碑的時間というふたつの力が働いているということが言え、ひとつ一つの絵は流れる時間に対する抵抗の形として、すなわち時間を定めよう、形を整理しようという意志の表現となります。そして、いくつもある麗子像から彼女のイメージをひとつにするということは、困難なことでもあります。なぜなら、全ての肖像は近似度がかなり高く、画家がモデルから離れようとした試行錯誤の結果、全てが同じ印象を与えることはなく、可愛らしかったり、怖かったり、怪しかったりと、いろいろな姿で存在します。この表現を日本美術史家の辻惟雄は、もののけの仕業としか思えないと言ったそうです。
この麗子像の特徴は、モデル自身の変化にあるとゆえます。最初の作品から最後の肖像にかけて、麗子は幼女から女性へと変化しています。それゆえにこの作品は、ある女の子の全成長過程を記録したものとも言えるのです。
リュケンさんは、麗子像の美は、現在の日本の美術家に影響を与えていると、奈良美智や川島小鳥をあげていました。そして、幽霊的なものは意味がきちんと定義されたものではなく、それぞれの時代に依って変わっていく定まらない感覚であり、名前のある化け物や妖怪はすでに化け物や妖怪ではなく枯れてしまっているものだと結論づけていました。

レクチャーのあとに北澤憲昭先生と対談し、講演に対して太田泰人先生からコメントもいただきました。




岸田劉生の麗子像の新たな見方として、劉生が関心を持っていた化け物や妖怪の話はとても新鮮でした。また当時、井上円了という人物は幽霊や妖怪について真剣に研究していたということは新たな発見であったと思います。
リュケンさんのレクチャーから、研究する姿勢を学生たちは感じ取れていたのではないかと思います。

リュケンさんの20世紀の日本美術について論考した書籍がありますので、ぜひ読んでみてください。

20世紀の日本美術—同化と差異の軌跡』


それでは。 

0 件のコメント:

コメントを投稿