こんにちは。残暑が厳しい中、大学は9月の2週目から後期授業が始まりました。学生たちにとって夏休みは、あっという間だったかもしれません。
9月10日におこなわれました、「芸術表象論特講」15回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、依田徹さん(日本美術史家)でした。
依田さんは東京藝術大学大学院博士課程を修了した後、さいたま市に採用されました。そこで学芸員として、さいたま市大宮盆栽美術館の立ち上げに関わり、3年半ほど勤務されていました。
今回のレクチャーでは、さいたま市大宮盆栽美術館についてお話していただきました。
盆栽美術館は、さいたま市が平成22年に開館した、盆栽を中心とした美術館です。名前の通り主な美術品は盆栽です。地場産業を観光資源として活用しようと誕生した施設です。
現在のさいたま市は、平成13年に浦和市・大宮市・与野市が合併、平成17年に岩槻市を編入して現在の形になりました。旧大宮市には昔、盆栽村というのがありました。現在は北区の盆栽町となっています。
そもそも、盆栽の職人は東京周辺にいました。もともと江戸の名残が東京にありましたが、震災によってそれが破壊されてしまいました。そして関東大震災後の復興による都市計画で、東京を近代都市化させる中で、盆栽園の居場所がなくなりました。盆栽園は広い土地ときれいな空気・水がなければなりません。そうして、震災の翌年に、巣鴨にあった盆栽屋の大手のひとつが大宮の北側に引っ越してきます。そのあたりの土地を借用して開拓し、盆栽家の愛好家が集まる自治村として変えていきます。最盛期には30件以上あった盆栽園ですが、現在では6件程になりました。盆栽の愛好家たちには、聖地として呼ばれています。盆栽町の難しいところは、高級住宅街へと変貌してしまったことで、地価が高くなっていることです。埼玉県内でも屈指の高級住宅街といわれます。
現在のさいたま市は、政令指定都市であり、東京のベッドタウンとして栄えていますが、観光資源はほとんどありません。昔、秋葉原にあった交通博物館を旧大宮市に誘致するなどしていますが、その場所だけで活性化はしません。そこで、前の市長が大宮に盆栽美術館、岩槻に人形会館(仮)を作る計画を立てました。
盆栽美術館は、当初「盆栽関連施設」としての計画で、コレクションを持たない、展示場的な施設でした。その計画途中で、市ヶ谷にあった「髙木盆栽美術館」のコレクションを購入することになり、コレクションを持つ美術館へと変更します。そこから、設計が進んでいたところを、美術館へ変更しました。
美術館としているので、所蔵品の調査研究をしなければなりません。それが学芸員の仕事でもあります。盆栽はどのような調査をするかというと、来歴を調べることから始まります。資料としては、盆栽の雑誌は明治30年頃に発行されたものがあります。そうしたところからデータを収集。また、盆栽の展覧会は昭和9年から始まっているので、そこからも情報を探します。売り立てのカタログも存在しますから、そうしたところからも調査をおこないます。
収集した過去のデータにある盆栽の写真と、現在の盆栽を見比べて、何がどの盆栽かを調べます。しかし、生き物である盆栽は、年月と共に形も変わっているはずです。見分けられるのか疑問でしたが、依田さんがおっしゃるには、重要なポイントは根元なのだそうです。上の部分(葉や枝とか)は変わっていくけれど、根元はあまり変わらないのだそうです。
また、盆栽の鉢の年代も調べることもしました。しかし、先行研究がありません。日本国内のものならなんとかなったそうですが、中国製となると難しかったそうです。
依田さんは、盆栽美術館の展示品をいくつか見せて、解説してくださいました。
盆栽美術館というので、盆栽は果たして美術なのかという点について、美術だと無理に言わなくても良いのではないかと思っていると、依田さんはおっしゃいました。
そして、盆栽は日本文化かというと、江戸後期に生まれた「盆栽」は、中国趣味の人達が中国から輸入してきた鉢に盆栽を入れることで、現在の形が出来たので、盆栽は中国趣味に属していました。それが昭和になり、盆栽は国風主義だということに乗り換えがおこります。
美術かどうかというよりも、盆栽という文化があり、それを日本人は長年楽しんできたということが重要なのではないかと思っていると、依田さんはおっしゃっていました。
盆栽美術館の立ち上げを通して、美術館を作るのは難しいということをお話ししていただきました。また、盆栽という特殊なものを扱う難しさも同時にありました。学芸員資格取得を目指している学生は、現場の状況を垣間みることができたのではないでしょうか。
今回のレクチャーでは、さいたま市大宮盆栽美術館についてお話していただきました。
現在のさいたま市は、平成13年に浦和市・大宮市・与野市が合併、平成17年に岩槻市を編入して現在の形になりました。旧大宮市には昔、盆栽村というのがありました。現在は北区の盆栽町となっています。
そもそも、盆栽の職人は東京周辺にいました。もともと江戸の名残が東京にありましたが、震災によってそれが破壊されてしまいました。そして関東大震災後の復興による都市計画で、東京を近代都市化させる中で、盆栽園の居場所がなくなりました。盆栽園は広い土地ときれいな空気・水がなければなりません。そうして、震災の翌年に、巣鴨にあった盆栽屋の大手のひとつが大宮の北側に引っ越してきます。そのあたりの土地を借用して開拓し、盆栽家の愛好家が集まる自治村として変えていきます。最盛期には30件以上あった盆栽園ですが、現在では6件程になりました。盆栽の愛好家たちには、聖地として呼ばれています。盆栽町の難しいところは、高級住宅街へと変貌してしまったことで、地価が高くなっていることです。埼玉県内でも屈指の高級住宅街といわれます。
盆栽美術館は、当初「盆栽関連施設」としての計画で、コレクションを持たない、展示場的な施設でした。その計画途中で、市ヶ谷にあった「髙木盆栽美術館」のコレクションを購入することになり、コレクションを持つ美術館へと変更します。そこから、設計が進んでいたところを、美術館へ変更しました。
収集した過去のデータにある盆栽の写真と、現在の盆栽を見比べて、何がどの盆栽かを調べます。しかし、生き物である盆栽は、年月と共に形も変わっているはずです。見分けられるのか疑問でしたが、依田さんがおっしゃるには、重要なポイントは根元なのだそうです。上の部分(葉や枝とか)は変わっていくけれど、根元はあまり変わらないのだそうです。
また、盆栽の鉢の年代も調べることもしました。しかし、先行研究がありません。日本国内のものならなんとかなったそうですが、中国製となると難しかったそうです。
そして、盆栽は日本文化かというと、江戸後期に生まれた「盆栽」は、中国趣味の人達が中国から輸入してきた鉢に盆栽を入れることで、現在の形が出来たので、盆栽は中国趣味に属していました。それが昭和になり、盆栽は国風主義だということに乗り換えがおこります。
美術かどうかというよりも、盆栽という文化があり、それを日本人は長年楽しんできたということが重要なのではないかと思っていると、依田さんはおっしゃっていました。
そんな盆栽美術館についてはこちら(さいたま市大宮盆栽美術館)
依田さんが執筆された書籍がありますので、こちらも是非ご覧下さい(Amazon)
『盆栽の誕生』
『近代の「美術」と茶の湯 言葉と人とモノ』(平成25年度 茶道文化学術奨励賞)
それでは。