2013年11月26日火曜日

芸術表象論特講#14

こんにちは。寒くなり、近くの公園の葉っぱが色づいていてとても奇麗です。
11月20日におこなわれました、「芸術表象論特講」14回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、アーティストの白川昌生さんでした。



白川さんは、ドイツのデュッセルドルフ芸術アカデミーで学んだ後、1983年に日本へ帰国しました。出身は北九州なのですが、帰国後は群馬の前橋にずっと住んでいるそうです。
帰国されてからは、留学先で知り合った方の紹介で、草津温泉の外れ標高1200mにある私立の中学・高校(様々な事情で学校へ行けなくなっている生徒が就学する全寮制、普通科の学校)の美術を担当していたそうです。
もともと大都会に住むつもりはなく、車に作品を積んで東京の画廊で発表し、オープニングの夕方まで在廊してその後群馬へ帰り、搬出作業のときにまたやって来るということをしていたそうです。画廊に滞在している時間が少ないため、人に会えず知り合いも少なかったといいます。

その頃の作品は、草津の山の中を回っているときに建築資材の廃材を発見し、その持ち主である業者さんに交渉して、タダで貰い受けたのを使用していたそうです。

その後、前橋のデザイン系専攻学校で働かないかと誘われて転職。その専門学校では敷地内に美術館を持っており、そこでも展示をおこなっていたそうです。

そのうち、アートフロントの北川フラム先生より声をかけられて、「ファーレ立川」(1994)や「大地の芸術祭 越後妻有トリエンナーレ2000」に彫刻作品を展示しています。

草津の六合村の学校で働いているときの話で、面白いことがあったそうです。村の集まりでお酒を飲んで村の人たちといろいろ話をしているときに、あまりしたくないが留学中のことを聞かれて少し話したそうです。そうしたら、自分も昔ドイツに行っていたという人が偶然いました。その人がいたのは、アートプロジェクトが成功したことで有名となった、ゲルゼンキルヒェンという街で、1970年代以降に国がお金をつぎ込んでツオフェライン炭鉱を再生させデザイン学校などの施設を作り、地域の活性化をはかった所でした。
その人がなぜドイツにいたのか。昔、草津では鉄鉱石が取れてそのための鉄道が通っており、そこで村の人が働いていていました。日露戦争や日清戦争などの戦いで鉄が必要となり、草津から鉄鉱石を採掘していたが、そのうち中国から輸入されるようになったので働くことが出来なくなった。国は保証として別の場所で採掘すれば良いとし、北海道の旭川炭坑を紹介。そこが閉山すると、ドイツへ斡旋してくれるということになり、60年代の始め頃まで外国人労働者として働いていたそうです。
白川さんはこの話を聞いて、山の中での出来事が世界とつながっている、ということに驚き、決して地方にいるからといって外されているわけではなく、自分が意識してテーマを探し出せば地域の中から、いろいろなテーマを掘り出すことが出来るのではないかという気持ちになったそうです。

80年代~90年代くらいは国内で展覧会をし、グループ展にも呼ばれていたそうです。どの会場へ行っても割と抽象が多く、話すと絵画にとって大切なのはマテリアルであるというような文学的な要素を省いて幾何学的なものを作る傾向だったそうです。みんな真剣に同じ話をしていることに、すごく違和感があったとのことです。ドイツにいた頃は、いろいろな人達がおり、アートの普遍的な話をせずに自分の話をする。自分がどう感じるかという話をまずする。自分たちのでっち上げたような理論を展開しているので、日本はみんな優等生みたいに同じことしか言わなかったそうです。

いくつか作品のスライドを見せていただき、作品についてもお話ししてくださいました。

専門学校には1999年まで勤めていました。辞めたのではなく、バブルがはじけて倒産したそうです。その頃は倉庫を持っていない為に学校に作品を保管していたため、倒産時に土地の所有権が銀行へ移ったことで、大きな作品は解体してトラック4回往復して焼却処分してしまったそうです。

身軽になってまたゼロからの出発になった頃、《無人駅で焼きそば》(2000)を発表します。
昔、桐生から前橋まで木を運ぶために電車が通っており、そのあとが今でも使われています。地域の赤字路線で無人駅。こういう所だったら、無料で展示しても誰にも文句を言われないのではないか。白川さんはそう思いついて、当時インターネットが普及し始めた頃でもあったので、この様子を公開し、わざわざ画廊などのスペースを借りなくても全国にある無人駅を利用すればやっていけるというメッセージを送っていたそうです。ちなみに"焼きそば"なのは、ペヤングソース焼きそばが地元で作られていおり、地元で作られているものを地元で消費することで、自分も地元でやっているんだという意志表示が込められているそうです。

その後、無人駅のはインターネットで公開しているうちに、NPOの人達(前橋でアートカフェを開いている人達)が参加したいと申し出たので、メンバーを近くに住んでいる人からも募集して、ゲリラでそうめん流しを開催したそうです。見せていただいた写真には、プラットフォームで流しそうめんをしている人達と、電車の窓から顔を出して怒っている車掌さんが写っていました。

他にも、群馬県が関東圏で有数のウインタースポーツの場所ということから、スノーボーをする《フィールドキャラバン計画2007》や、白川さんが自作した前橋の町おこしをする「木馬祭り」という物語を実際に開催した様子、「水と土の芸術祭」(2012)に出品した地元の人と一緒に作った《沼垂ラジオ》(このラジオはそのまま地元の人々に引き継がれているそうです)についてもお話ししていただきました。

ドイツで学び、群馬という場所を拠点として活動する白川さん。彫刻作品や人と関わることで生まれる作品を見せていただき、学生達のアートの概念が変化してゆくのではないかと思います。
自分で采配を決められないものがあり、偶然の出会いや出来事を受け入れながら、そういうなかでやるべきことをって行かなくてはならないとおっしゃった白川さんの言葉が、印象的でした。

白川さんは来年の3月に個展を開催するそうです。
詳しい情報は、アーツ前橋のHPに掲載されると思いますので、ご確認ください。

アーツ前橋


それでは。

2013年11月19日火曜日

芸術表象論特別講#13

こんにちは。学祭が終わり、秋が来たなぁ~と思っていたら、急に寒くなって厚手のコートを引っ張りだしてきました。
11月13日におこなわれました、「芸術表象論特講」13回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、日本画家の間島秀徳さんでした。



間島さんのこれまでの制作について、お話していただきました。
間島さんは、茨城県かすみがうら市に20年前からアトリエを構え、10年ほど前に住居も移したそうです。最初に見せてくださった、制作風景の映像には、豊かな自然に囲まれた場所で制作されていました。
日本画というと、畳(ではない場合もあると思いますが)の上で作品を寝かせた状態で描く、というイメージがあります。しかし、映像の中での間島さんは、屋外のコンクリートの上に少し斜めにしたりして制作していました。
技法は日本画的なのを用いているとおっしゃっていましたが、水と大理石(既成の粒子の異なるものを使用し、砂や溶岩などは採取したものを砕いて使用)と樹脂膠とまぜた顔料を使用して描いています。それも、水も顔料もお皿に乗せて・・・・というスタイルではなく、とにかく大量に使用しています。ちょっとっ本格的な家庭菜園をおこなう際に使用するような農薬散布機のようなものを使用して水を画面全体にまき、水で膜が出来るくらいびしょびしょに濡らします。ボールに大量の顔料を入れ、ドリッピングなどを用いながら描いてゆきます。水の流動性に合わせて、画面そのものを動かしながら重力を活かした技法を用いています。 
顔料はお店で売っているようなものではなく、原材料を取り寄せて作っているそうです。通常の膠ではなく、樹脂膠を使用していることについて、学生からも質問がありました。これは、顔料の白さを強調したいと思うようになってきたときに、膠の黄ばみや季節てきな変化などが気になりだし、着色がない樹脂製のものを使用するようになったと言います。試行錯誤し、画材屋さんとも相談してこの方法にたどり着いたそうです。

水の痕跡がそのまま作品になっていくような、そういうイメージがあるそうです。こうしてスライドなどの画像ではわからないのですが、実物は結構ぼこぼこした表面になっているそうです。
見せていただいた映像は、京都の清水寺での展示の様子でした。展示されたときに、たまたま知り合いのダンサーの方がいらっしゃったそうで、作品の前で即興で踊ってもらった様子も映っていました。

間島さんの作品のイメージは水です。このことについて、学生からも質問がありました。自身の中の水のイメージではなく、大学に入り日本画的な素材に関わるようになり、いろいろ模索をし試してみたところから浮かび上がってきたのが水のようなものだった、ということのようです。間島さんが学生の頃は、何でもありではないという時代で、自分が好きな表現を実現できるというよりも、いろいろなものが否定的に捉えられていた、そんな空気も持った時代でもあったそうです。そのため、描きたいものから〜何が重要なのか〜描かざるをえないものへという経緯があったそうです。

水との関わりというのは、自分の意思を直接伝える方法に限界を感じていたこともあり、水との出会いが、水と共に作る可能性にかけたいと思う様になったとのことです。水の力は、コントロールしてい描いている部分もあるが、アクシデントというか偶発的なことで自然に与えられる力の両方を利用して、制作しているそうです。

近年の作品から初期の作品、墨などの様々な技法を用いた作品をスライドで見せていただきました。

日本美術の発展に大きく貢献した岡倉天心が思索していたとされる「五浦の六角堂」。東日本大震災の際に津波により甚大な被害を受けました(現在は再建されています)。間島さんは、震災前にその六角堂に作品を展示したことがあったそうです。そのときの写真をスライドで見せていただきましたが、六角堂自体が海のすぐ近くにあるため、間島さんの作品がその海の一部のように建物の中にぽっかりとあり、とても不思議な感じがしました。ライトを当てているわけではなく、自然光を使用しているようなので、それがまた作品に影響を及ぼしているのかもしれません。

間島さんの作品は、清水寺、二条城、お茶室、六角堂、演劇用舞台などといったいわゆる美術館や画廊、ギャラリーといった展示空間ではない場所でおこなわれていました。そうした場所でおこなうにあたって、ライトではなく自然光で見せるなどの工夫がされています。作品も平面だけではなく、大きな円柱状のものや、立方体のもの、天井といった形態に描かれています。日本画という枠にとらわれない作風は、ジャンルの違う制作作品と一緒に展示したり、ダンサーたちとのコラボレーションと多岐にわたっています。

冒頭でも記しましたが、日本画と言えば、少しかしこまって制作するようなイメージがあります。しかし、間島さんの制作や作品、展示の方法はそのイメージをがらっと変え、創造と表現は無限であることを感じました。学生たちにとっても、励みになったように思えます。

間島さんは、美学校にて「超・日本画ゼミ」という授業をおこなっています。
また、展覧会も開催中です。ぜひ一度、その目で躍動する水の作品をご覧になってください。

「超・日本画ゼミ」についてはこちら
美学校HP

開催中の個展についてはこちら
間島秀徳 Exhibition:Cosmic garden vol.2
11月7日(木)~20日(水)12:00~19:00(日曜休廊)
Art gallery閑々居(かんかんきょ)



それでは。