2013年12月4日水曜日

芸術表象論特講#15

こんにちは。朝や夜がすごく寒く、日中は暖かいかな・・・と思いきや日陰になっているところは朝や夜と同じくらい寒いと感じています。
11月27日におこなわれました、「芸術表象論特講」15回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、美術家の原田裕規さんでした。



原田さんは、山口県で生まれ広島県で育ちました。16歳の頃から広島・東京を中心に作家活動を開始し、美術系コースのある高校へ進学。その後、武蔵野美術大学芸術文化学科へ進学し、在学中にインタビュー・アーカイヴサイト「Culture Power」の運営に携わります。大学卒業後は、東京藝術大学大学院修士課程先端表現専攻へ進学。今年より『美術手帖』に展覧会レビューや中原佑介連載などの執筆を始めました。現在は、大学院に在籍しながら、フリーランスの立場で展覧会の企画や自作の制作、執筆活動などをおこなっているそうです。

レクチャーでは、原田さんが編著され今年フィルムアート社から発行された『ラッセンとは何だったのか?』を中心にお話していただきました。

クリスチャン・リース・ラッセンは、色鮮やかな海やイルカをモチーフに描いた作風で知られる作品を発表しています。おそらく、誰しも一度は見たことがあると思います。
2012年、原田さんは共同企画として「ラッセン展」(CASHI)をおこないました。この展示では、「公募団体展」「インテリア・アート」「現代美術」といった3つの領域から作家を選び作品を展示したそうです。
地方に住んでいると、美術作品、特に現代美術を見る機会が都市部に住んでいる人よりもとても少ない。つまり、作品との出会い方に限りが出てしまうそうです。例えば、デパートなどの百貨店の8階にあるギャラリーで、草間弥生と天野喜孝と平山郁夫と奈良美の作品が並んでいるという状況で作品と出会うことになる。原田さんはそういう状況から、美術系の高校へ進学することで、次第に公募展の作家たちを知ってゆくようになったそうです。こうした体験を踏まえ、「美術」には大きく「公募団体展」「インテリア・アート」「現代美術」という3つの領域によって受容されているのではないかと考えたそうです。

可能な限り、ラッセンの作品をニュートラルに語ったとしても、むしろ、ニュートラルであればあるほど、語りそのものが現代美術文脈の評価とそして同時に現代美術批判というふうに転換する可能性もはらんでいる。言い換えれば、真にニュートラルな「作品分析あるいは研究」は本当に可能なのか、という疑問をラッセン本は投げ掛けています。ラッセンの場合、ニュートラルの語りであればあるほど、作品分析がいつの間にか「制度批判」にさらされる。ニュートラルになっていけば「作品分析」になり、パフォーマティブになれば「制度批判」になる。重要なのは、「作品分析」と「制度批判」の間にあるものではないか。作品を分析し、制度などの様々なものから切り離して作品だけを見るということは、ある意味、一側面からしか導きだすことしか出来ない。しかし、コンテクストの中で読み込んでゆくには不十分となる。もしかしたら、この中間に作品の価値らしきものがあるのではないか、こうしたことを「ラッセン展」では感じ取ったそうです。
求められる語り口は、ベタな視点から見て、いかにラッセンの作品が良いのかということと、メタな視点から見て、いかに彼が優れた制度批判者であるかを提示すること。この二つの全く違う語り口を接近させて行き、同時に一つの語りで二つのことを語るようにすることで、作品の価値について切り込んで行く方法になるのではないか。必ずしもラッセンだけではなく、このことは、他の作家にも当てはまることでもあります。そしてベタとメタの二つを融合させると、重なった領域がユーモアになる現象が起きる。二種類の価値が同居することで、ユーモラスに見えてしまう。それは、本気で語っているのかそれともネタで語っているのか、分からない状況に陥るということが、実は価値の探索に繋がっていくのではないか、ともおっしゃっていました。

「ラッセン展」と同じ位置として考えているという「心霊写真展」(22:00画廊)。この展示も昨年企画されました。見えないイメージは、人に対して影響を与えてしまう。また、優れた作品は時として作者を離れてしまうことがある。例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》なんかがそうかもしれません。作品が事物として動きだし、人々に対して想像力え与える現象がしばしばある、そうしたことを踏まえ、展覧会では次の三つのポイントを設定したそうです。
一、作者が不在であること。
(心霊写真が作者の不在によって準備されているのではないかということから。)
二、優れた作品が作者の固有名詞を離れて、人々に影響を与える。
(心霊写真に作者が認められてしまった瞬間、それは心霊写真ではなくなるから。)
三、事物を投げかける視点と鑑賞する視点、両者の区別がつかないような展示にしている。
この展覧会から、ラッセンの作品から内面性が見えてこないことについて、繋がっていくのではないかと思ったそうです。


ラッセンの制作行程は謎に包まれているそうです。原田さんの推測では、おそらく現在ではデスクトップを使いデータ上で作業、それを出力して一部加筆するという方法なのではないか。そして、工房で集団によって製作されている可能性が極めて高いそうです。ラッセンがテキストを書いたりする環境がないようにし、作者と作品は遠ざけられているのではないかともおっしゃっていました。そして、ラッセンを認めるとか認めないとかいう問題の中核にある問題として、果たしてこのような作品が鑑賞の対象になりうるのでしょうか。

これまでラッセンの作品は、美術界の中では語られることはありませんでした。それは、上記したような問題をはらんでいたため、美術界では嫌われている存在だったからです。原田さんは、ラッセンの作品はどうも、嫌悪感を与える存在として捉えられるところがあると言います。そしてこのことは、美術家の中ザワヒデキが提示した「ヒロ・ヤマガタ問題」とも関係しています。

昨年度、大学を卒業され、その際に提出した卒業論文「アール・ローラン論――セザンヌ作品のダイアグラム分析をめぐって」についてもお話してくださいました。

原田さんは、芸術とは何か、美術とは何か、それだけではなく何が「良い表現/美術」でその「良い表現/美術」を決定するものは何か、その仕組みが気になるとおっしゃっていました。美術に関わっている全ての人が、このことについて一度は考えたことがあるのではないでしょうか。そして、その結論は果たしてあるのか・・・・。

24歳と若く、学生たちととても年が近い原田さん。これまで、誰も取り上げてこなかったラッセンを糸口に、アートとは何なのかということを、様々な視点からアプローチされている姿は、学生たちにとってリアリティがあり、刺激にもなったと思います。



レクチャーを聞いた学生、そして更に知りたい方はぜひ読んでみてください。



『ラッセンとは何だったのか? 消費アートを越えた「先」』(フィルムアート社)



それでは。

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