2014年12月11日木曜日

芸術表象論特講#22

こんにちは。夜になると街が色鮮やかな電飾で飾り付けられて、にぎやかです。
11月26日におこなわれました、「芸術表象論特講」22回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、美術史家の太田智己さんでした。



太田さんは、「美術全集の歴史」というタイトルでお話してくださいました。

図書館などで見かける「美術全集」ですが、日本で最初に出版されたのは、1927年から1930年にかけて刊行された平凡社の『世界美術全集』(全36巻)でした。それまでの美術史書が500~1000部の売り上げに対して、この『世界美術全集』は12万5000部という驚異的な数字を打ち出しました。
そもそも『世界美術全集』は、当時大流行した「円本」の一種でした。「円本」とは、1冊1円で発売された全集などで、1926年に改造社が刊行した『現代日本文学全集』が始まりとされています。価格だけではなく、新聞への大規模な宣伝広告などもあり、多くの人々が購入しました。
配本の方法も戦略的にとられていたと言います。『世界美術全集』の巻数は、古い年代順に設定されています。しかし、配本になるとその巻数順ではなく、読者受けがしそうな巻から配本されていました。つまり、第1回配本に第17巻「ルネサンスと東山時代」、第2回配本に第7巻「ビザンチン・印度グプタ朝・唐時代・新羅統一時代・白鳳時代」といったように、ばらばらでした。実はこの手法は現在でも使われています。
『世界美術全集』の読者ターゲットは「家庭」でした。宣伝広告にもやたらと「家庭」の文字がでてきます。家庭で『世界美術全集』を揃えて持つ、ということは、当時一般には持つことのできない「家宝」を所有することと等しいことでした。子や孫の代までこの全集を「家宝」として引き継がせてゆく・・・。『世界美術全集』は、当然美術作品の写真が掲載されています。写真は印刷物であり、今ではそんなに珍しくありませんが、当時は美術作品を見るということは、なかなか出来ないことでした。なぜなら、今のように多くの美術館が存在しておらず、そうした機会がなかったためです。全集を持つことは「家庭」で美術館を持つことが出来るという「家庭美術館構想」というのもひとつのコンセプトでありました。全集を買うことで、家庭の教養や趣味がレベルアップする。そうしたことは、一部のエリート家庭でしか育むことができなかったのですが、これが一般家庭でも出来るようになる。そして置いておく、つまり中身を見なくても、持っていることで見かけだけでもそう見える、ということもありました。

この『世界美術全集』における「家庭美術館構想」の美術の社会普及は、これ以後の美術全集における定型フォーマットとなりました。

1960年代から1980年代になると、美術全集ブームが起こりました。この時期は高度経済成長にあたり、一般家庭で電化製品をそろえ、人々の暮らしにもゆとりが出始めていました。そんなとき、美術館の建設ラッシュもあり、美術に関心が集まりました。
小学館から刊行された『原色日本の美術』(1966~72年)は全集の金字塔と呼ばれている全集なんだそうです。シリーズの展開をおこなうことでアップデートしていき、1990年には50万部に達しました。そして最初の『世界美術全集』が持っていたコンセプト「家庭美術館構想」を引き継ぐものでもありました。その後、学研から刊行された『日本美術全集』(1977~80年)も「家庭美術館構想」を引き継いでおり、専用の本棚がセット販売されたそうです。

美術全集による美術の社会普及を見てきましたが、それ以外にもあると太田さんはお話してくださいました。
まずは、ラジオによる美術番組です。現在ではテレビやインターネットがあるのが当たりまえですが、以前は各家庭にラジオがあり、これが大切な情報源のひとつでありました。ラジオ放送は1925年に開始。様々な番組がある中で、美術の番組も存在していたそうです。番組としては、美術作品に関する解説など美術に関する事柄が研究者や作家によって語られていたそうです。しかし、音の情報だけでは不十分なため、補助教材としてテキストも販売されていました。
美術全集は購入しないといけませんが、ラジオは偶発的にアクセスできるため、たまたま聞いたことで興味を持つことがあるなどの利点がありました。現在ではテレビが普及し、ラジオでは出来なかった視覚情報を伝えることが可能となりました。
もうひとつは、サブカルチャーです。例えば、大衆小説(円山応挙を題材にした「応挙の幽霊」)、講談(演者が主に歴史にちなんだ読み物を観衆に対して読み上げる伝統芸能)、ラジオドラマ、児童書(作家の一生を描いたもの。『狩野芳崖』とか)があります。現在は小説や漫画の題材としても見受けられます。

美術全集は1990年代から2000年代になると、家庭では購入できない価格となりました。それに、「家族」自体が変化しているため、家宝を持つというモデルが崩壊しました。その代わり、やさしくてすぐにわかる解説で、薄い書籍類が出回るようになりました。
テレビによる美術番組も、テレビ離れやネットの普及によって、かつてのような状態ではなくなっています。美術館や博物館による展覧会も苦境に立たされています。なのでこれからはサブカルチャーによる美術普及が良いのではないかと、太田さんはおっしゃしました。

図書館などで見た「美術全集」に、このような深い歴史があることは、とても驚きました。美術の歴史でも、少し違った見方が出来たのではないかと思います。


太田さんの情報はここで見れます。


それでは。

芸術表象論特講#21

こんにちは。いつもいる館から別の館へ移動するために外へ出るとき、今までは平気だったのが上着を着ないと寒くてしかたがありません。
11月19日におこなわれました、「芸術表象論特講」21回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、アーティストの田中功起さんと冨井大裕さんでした。

▲左から冨井さん、田中さん

2011年にCAMPで「アートを実践することについて」というトークイベントで、杉田先生、田中さん、冨井さん、奥村雄樹さん(アーティスト)の4人が参加しました。その際に続きをしようと話していたこともあり、今回のレクチャーにお招きしたと杉田先生がおっしゃっていました。(残念ながら、奥村さんは海外に行っているためお招きできませんでした。)

レクチャーとしては、杉田先生を交えて3人でのトークとなりました。ブログでは、はじめに田中さんと冨井さんによる活動紹介がおこなわましたので、そちらを中心に書きたいと思います。

冨井さんは、昨年まで芸術表象専攻の「アート・プラクティス演習ⅡB・C」という授業をご担当してくださっていました。
冨井さんの作品は主に立体物で、“日常のモノをそんなにあり方を変えずに見せる”というスタンスで制作しているそうです。
例えば、バケツとぞうきんを使って、その属性は変えずにバケツとぞうきんではないけど、バケツとぞうきんみたいな・・・・・。
最近では、慶応義塾大学アート・センターでショーケースのプロジェクトに参加しています。作品は消しゴム3個を組み合わせたものと、台座。105個あるけれど、どれが本物なのかということは次第にどうでもよくなって、1個が良いのかとかそういうレベルでもなくなる。では、私たちはいったい何を見ているのかということになる。そして、印刷物は記憶なのか何なのか。展示しているものは記録なのか、それとも現実なのか・・・・。
この展示では、告知するための印刷物を作っていないそうです。そうなると、はたして人が来ているのかわからないそうですが、稀に来て置いてある印刷物を見ると数が減っているので、その減る量で人数をカウントしているそうです。そこに置く印刷物は、置いていると次第にしなってしまってもピタッとなる特別な台座を作ってもらい設置しているとのことです。

実際の現場で展示をするという人の理想と、
印刷物は配布されてその役割が終わるのではない別の理想と、
展示は印刷物があることで人と会話ができているのか、現場のものではないと会話ができないのか、
展示の翻訳の問題であって、その辺のことをみんなでやっているという感じだとおっしゃいました。
立体の作品もしながら、それがどう受け取られるかということを、印刷物などの関わりから見ようとしていると、冨井さんはおっしゃっていました。

田中さんは、昨年のヴェネチア・ビエンナーレ日本代表(キュレーター蔵屋美香氏)として参加、特別表彰を授賞しました。また、2012年度の「芸術表象論特講」特別版にゲストとして来ていただいたことがありました。
最近の活動としては、ニューヨークで開催されたフリーズ(Frieze)のアートフェアにプロジェクトとして参加したそうです。アートフェアとは、通常ギャラリーの寄り合いみたいなもので、世界中のギャラリーが集まってブースを借りて作品を売るというシステムです。フリーズのアートフェアはロンドンから始まりました。フリーズは雑誌(同名の『Frieze』)を刊行しています。単に売り買いだけではどうだろうと思っているフリーズのディレクターたちが、ギャラリー・ブースとは別の独立したプロジェクトとしてキュレーターに企画を任せます。。これが田中さんが参加した、屋内外問わずの比較的自由にアーティストのプロジェクトを展開する「フリーズ・プロジェクト」です。
ランドールズ島の公園内に一時的に設置されたテントが、アートフェアの会場になります。田中さんはプロジェクトをおこなうにあたり、通常はアートフェアに来ないような、このランドールズ島にまつわるコミュニティとか、実際にそこで働いている人びとや歴史に関係する人を毎日一人ずつ呼べないかと考えました。
1日目、実際にランドールズ島にある消防士のためのアカデミーで教官をしている消防士を呼びました。彼には実際に現場に出ていたときの話やアカデミーでの話などを、会場の方にしてもらったそうです。
2日目、詩人を呼びました。彼女には詩人サミュエル・グリーンバーグの本に直接言葉を書き込みながらグリーンバーグの詩をリライトしてもらいました。グリーンバーグは、島にあった精神病院(現在ある精神病センターとは違う建物)で亡くなるまで詩を書き続けました。存命中の彼は無名でしたが、ハート・クレーンという詩人がグリーンバーグの詩を再構築し自分の詩として発表したことにより、名が知られるようになりました。
3日目、サックスプレイヤーの方を呼びました。フリーズの隣にあるスタジアムで、昔ジャズのコンサートがおこなわれていたそうです。1930年代に実際にあったコンサートの映像がYouTubeにあったので、その中の曲をサックスプレイヤーの方に吹いてもらおうとしました。しかし、主催者側からは、音を出すことに難色を示されたため、サックスプレイヤーの方には、サックスではなく口笛を吹いてもらったそうです。しかも、そのプレイヤーの方がとても口笛が上手だったとか・・・。1時間に1・2回ほど吹いてもらい、お客さんのなかには、彼の口笛につられていっしょに口笛を吹いた人もいたそうです。
4日目、実際に公園内を常日頃走っているランナーの方に来てもらいました。その方はランニングのインストラクターもしていて、この島でそうしたランニングのコミュニティに関わっています。会場内でストレッチをしてもらい、実際に会場の外を走ってもらいました。
5日目、公園課の職員で島の歴史をよく知っている方を呼びました。彼はこの島で20年ほど働いているそうです。彼も1日目の消防士の方と同じように、会場に来ていたお客さんに島の歴史、島のさまざまな施設や問題点などについて話したそうです。
田中さんは期間中、毎日朝から晩まで通い、その日のプロジェクトを撮影して編集して翌日会場に設置しているモニタで上映されていたそうです。お客さん全体の1割もプロジェクトに気づいていなかったと思うとおっしゃっていました。実際におこなわれた様子をまとめた映像も見させていただきました。このプロジェクトは、アートフェアという場がそもそも売り買いと社交がすべてであり、そこに別の目的をどうやったら入れられるか、という実験だったということです。そうした所に別の目的を持った存在がいるとどんな影響があるのか・・・・など、そういうことを考える場であったとおっしゃっていました。

レクチャー後半の3人でもトークは、田中さんのアートフェアから、自分たちの立ち位置のようなこと。大きなアート展覧会みたいのでおこなわれる、内側からの批判と外側からの感覚など・・・・。作品を作るということだけではなく、見せること、それがどのようになっているのか、自分たちはどう思うのかということを、お話ししてくださいました。






既成概念の展示という手法ではない、別の方法で表現を追求しようとしている2人のアーティストの活動から、彼らを取り巻くことについて、お話してくださいました。学生たちにとって、作品を制作するということだけではないことを、考えるきっかけになったのではないでしょうか。


田中さんのHPはこちら

冨井さんのHPはこちら


それでは。

2014年12月1日月曜日

芸術表象論特講#20

こんにちは。いちょう並木では、落ちたいちょうの葉に雨が降り注いで、さらに黄色が鮮やかに見えます。
11月12日におこなわれました、「芸術表象論特講」20回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、アーティストの増本泰斗さんでした。



増本さんは、東京工芸大学の写真学科出身なのですが、学生時代は、写真を撮らずに絵ばかり描いていたそうです。レクチャーでは、入学する前や在学中に描いていた絵を見せてくださいました。
学校の授業にあまり出ないで、グラフティばかりを描く日々。その頃は特にアーティストになる気はなく、現代美術にもあまり触れたことがなかったそうです。

大学院生の頃に、杉田先生が主宰しているart&riverbankで個展(注1)をおこなったことをきっかけに現代美術に触れるようになり、興味をもつようになったそうです。大きな転機となったのは、個展の次に参加したグループ展でした。もともと、ポルトガルのリスボンで開催する予定だった展覧会でしたが、現地の都合でキャンセルとなり、その代わりに日本で開催された展覧会(注2)でした。
そんなことがなければ考えることがなかったポルトガルについて、展示という機会を通じて考えたり、調べたりしながら、思いを馳せるようになり、次第に行った気になってきたといいます。実際に発表した作品も、行ってもいないのに行ったかのように架空の旅行をテーマにしたそうです。行ったつもりになって書いた日記。合成してつくった観光写真など。そのときの生活やおかれている状況をそのまま展示したかたちでした。
そうした経験は、ある意味における「適当」の良さ、美術における形式や文脈などの「枠組み」にこだわらない良さを感じたそうです。最初の個展ではミニマルな作品をかっちりと作る感じだったこともあり、正反対のやり方もあるのだと発見があったそうです。

大学院修了後は、MAUMAUS(注3)というインディペンデントのアート・スクールが主催するレジデンスを利用して実際にポルトガルのリスボンへ行くことになりました。当初は、ポルトガル語はおろか、英語も満足に話すことができなかったのですが、それでも積極的に話しかけていた増本さん。自分自身は相手にいっぱい話しかけてコミュニケーションが取れた気でいたけれど、周りからしたらこの人何言っているの・・・状態が1年間ぐらいは続いていたそうです。その頃につけていた作品としての絵日記を見せていただきました(注4)。コミュニケーション不全と、奇跡的に通じ合う瞬間を通して、異なる者やコトについて考えさせられる良い機会となったそうです。
また、ポルトガル滞在中の2007年は、ドクメンタとヴェネツア・ビエンナーレ、ミュンスター彫刻プロジェクトの3つの展覧会が同時に開催される特別な年だったそうです。日本料理屋のアルバイトだけで生計を立てていたので、あまりお金がなかったそうですが、どうにかしてでも行こうと思い、友人と一緒に、ヨーロッパ版の青春18切符のような1ヶ月フリーパスをベルリンの偽造チケット屋から購入し芸術祭を見る旅にでかけました。旅行自体は2週間ぐらいでしたが、有名な作家の作品だけでなく、同時代の雰囲気を感じることができたのが良かったそうです。

その後、日本へ帰国して2010年に京都へ移り住みます。京都では、ある物件の家賃を複数でシェアすることで集まっているアーティスト・コレクティブ「Collective Parasol(注5)」をはじめます。「まとめることをやめること」をポリシーに、やりたいと思う企画は、メンバーの承認や合意は必要なく、日程さえ合えば勝手に実施することができるというような集まりだったそうです。テート・モダンで開催された「No Soul For Sale(注6)」という展覧会にも呼ばれたりもしましたが、結局一年半ぐらいで物件を手放してしまいそのままCollective Parasolは解散しました。
また、京都の専門学校で非常勤講師をしているので、そこでの授業を記録して公開しています(注7)。授業という枠組みを使って、その時々に気になることを学生と一緒に考えながら実験したりしているそうです。例えば、戦争のイメージを別の角度から考えようとする授業(注8)や、原発作業員について身体的なアクションを通して考えようとする授業(注9)などを紹介いただきました。
さらに、増本さんのひいおばあ様がヒロシマの原子爆弾投下の際に、爆風で倒れてきた衣装箪笥の下敷きになった体験をもとにした「Protection(注10)」という作品の記録映像を見せてくださいました。
その他には、「予言と矛盾のアクロバット(注11)」という、「矛盾」と「直感」を大切するプラットフォームや、杉田先生と不定期に行っている実践「ピクニック(注12)」など、これまでの活動や継続中の活動についてもお話ししてくださいました。

グラフティを描いていた学生時代から、現在の活動に至るまでのいくつかの転機を見ていると、そこには、学生たちにとって作品と向き合うための、また別の可能性が示されていたのではないかと思います。



増本さんは、最近本を自費で出版されたそうです。こちらから購入できます。

その他、増本さんの詳しい活動については、HPなど下記URLなどで確認することが出来ます。


文中の注釈についてはこちらを参照ください。
(注1)最初の個展「All Notes Off」
https://plus.google.com/u/0/photos/101989624643088460124/albums/5827421502690253505

(注2)ポルトガルで開催するはずだった展覧会がキャンセルになったため日本で開催した展覧会
「do fim ao fim」
https://plus.google.com/u/0/photos/101989624643088460124/albums/5827422045562825601

(注3)MAUMAUS
http://www.maumaus.org/

(注4)ポルトガル生活の絵日記「Vinho da Casa de Banho」
https://plus.google.com/u/0/photos/101989624643088460124/albums/5630512897900413377

(注5)Collective Parasol
http://collective-parasol.blogspot.jp/

(注6)No Soul For Sale
https://plus.google.com/u/0/photos/101989624643088460124/albums/5821946749670134225

(注7)授業自体がひとつのアートの実践「Grêmio Recreativo Escola de Política」
http://gremiorecreativoescoladepolitica.org/

(注8)戦争のイメージを別の角度から考えようとする授業
https://vimeo.com/37885310

(注9)原発作業員について身体的なアクションを通して考えようとする授業
https://vimeo.com/109844456

(注10)Protection
https://vimeo.com/18836555

(注11)予言と矛盾のアクロバット
http://aaccrroobbaatt.com/

(注12)Picnic
https://www.facebook.com/pages/Picnic/259375414100782

それでは。

2014年11月25日火曜日

芸術表象論特講#19

こんにちは。雨が降ると寒さが増して、もうすっかり冬なんですね。
11月5日におこなわれました、「芸術表象論特講」19回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、劇作家・アーティスト・PLAYWORKS主宰の岸井大輔さんでした。



レクチャーでは、岸井さんと演劇についてお話してくださいました。

岸井さんは中学校へ進学したときに演劇部へ入部しましたが、男子校だったために部員いなかったそうです。
部活に所属していると、いろんな劇団から部に招待券が送られてくるので、それを利用してお芝居を見に行っていたそうです。だいたい演劇部というのは部員がみんな仲良しで、演劇もみんなで
見に行ったりするものらしいのですが、岸井さんのところはそうではなかったため、招待券を自分のものに
出来ることを中学1年生のときに気づいてしまった。なので、2年生から組織的に集め、当時はオペラも歌舞伎も
招待券で見に行けたそうです。また、学校の近くに太田省吾さん(劇作家・演出家)の稽古場があり、よくそれも見に行っていたそうです。

演劇をするために、早稲田大学へ進学します。演劇を学べる大学は当時あまりなくて、早稲田でサークルに入ってというのが一般的だったそうです。
そのころから、美大に通っている友人が増え、そうした友達と一緒に展覧会も見に行っていたといいます。当時は、コンテンポラリーダンスとかがあまりなく(舞踏はありましたが)、現代アートの展覧会も現在のようにおこなわれているというので
はありませんでした。それでも、美大の友人とかと展覧会を見に行くことがあり、そうしたものを見ていて"演劇だけが古い”ということを思ったそうです。

岸井さんが大学を卒業した頃、世の中はバブルが弾けたときでした。演劇界には平田オリザが出てきて、小さな声で日常で起きていることをリアルにおこなう、そんな静かな劇が流行り始めます。まるで写実的な劇でびっくりした。演劇だけは遅れていると思っていたけれど、いきなり19世紀に戻ったかのような怖さがあったと岸井さんはおっしゃっていました。

音楽や美術にはそうしたことが起こりにくいのはなぜなのか。例えば、絵画ではニューペインティングなどがありますが、急に全員が風景画を描きだすようなことはあまり考えられません。音楽だったら、急にみんなががベートーベンみたいなのを作曲し始めるということもあまり考えられない。しかし、演劇では急に明日から日常を描き始めるということが起きてしまう。
そして、なぜ演劇だけ遅れていたのかと考えたとき、モダニズムが原因なのではないかと思った。絵画とは何か考えなくても、例えばバウハウスとかそういうところの人達が考えて、概念を提示してしまっている。一度、そうして提示されることで戻れなくなるということもあるが、そのおかげで、みんなが一斉にモダンへ戻るということはなくなった。音楽でも同じことがあり、例えばジョン・ケージは鳴っている音は全部音楽だという考え方を提示した。
そうなると、演劇とは何かということを考えるようになる。岸井さんは、そういう作品を作ることを決めたそうですが、これは思っている以上にとても大変なことをしなくてはいけない、ということに気がつきます。演劇とは何かということを決めて、その作品を作るとなると演劇運動みたいだけれど、周囲にそういうことをする友人はいなかったのもあり、1年くらい放置しました。しかし誰もそうしたことをおこなわないため、岸井さんは行動を起こしました。

演劇とは何か。岸井さんがたどり着いたのは「集団」でした。演劇は人間が必ず複数人いる。学校、宗教、地域、家族、都市、国家、人類・・・。集団があればそれぞれに演劇行為がある。演劇があるから人が集まってくる、集団があるから劇が生まれる力が強いと思ったそうです。
今、私たちは村でも都市でもない所に住んでいて、その場所には人が集まってくる状況が必要となる。その場所にあわせたコンテンツが出来てくる。そのコンテンツを作ることをしようと、岸井さんは思い、人が生きている所を調べ、そこの社会に合わせて場所を作り、その中で劇を作る・・・。32歳のとき、決意して外へ出て行きます。

まちで劇を作ろうと考えたとき、そのまちに実際に住んでみて作ろうと思いつきます。たまたま演劇を見に来ていたお客さんの中に、自分のまちはどうですかと声をかけてくれた方がいたため、2003年から2009年までは2・3ヶ月おきに違う町をフィールドにしていたそうです。レジデンスなどの施設を利用するようになったのはここ2年くらいなのだそうです。

岸井さんは、依頼されたまちへ行き、実際に住みながら活動をおこなっています。
2000年から2007年頃までおこなっていた「POTALiVE」(観客は駅で待ち合わせて、そのまちについて案内されながら散歩する。そのまちに住んでいる人々の行為を演劇に見るように作品化する)や、「創作ワークショップ」(12回の講座を受けた人は誰でもその手法で公演をやっていい。これまでに150人くらいの卒業生がいます)。2005年から2010年までおこなった「LOBBY」(そのまちにとっての入り口を創る。俳優やダンサーなどの人達がそのまちを一緒にめぐったり案内したりする)。また、東京アートポイント計画の一貫としておこなわれている「東京の条件」(ハンナ・アーレント『人間の条件』を戯曲とみなし、東京を舞台に東京に上演可能なようにあてがきをして「公共の戯曲」を創る上演時間3年間の演劇)、「会議体」(150日間に開かれた会議を300回開催する)など、これまでの活動についてお話してくださいました。


演劇が集団である、という岸井さんのお話を聞いていると、生活を営んでいる人が実は何かしらの演目をしている、すると私たちもなんらかの演目を演じているのかも・・・。となどと考えてしまいました。演劇といういわゆる固定概念を越えて活動されている岸井さんの活動は、学生たちにとっても刺激になったのではないでしょうか。


岸井さんのHPはこちら

ブログもあります


それでは。

2014年11月21日金曜日

芸術表象論特講#18

こんにちは。もうすっかり寒くなって、学校の前にある公園がかなり色づいていて綺麗です。
10月15日におこなわれました、「芸術表象論特講」18回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、建築批評家・RAD主宰の川勝真一さんでした。



近代建築といえば、白くて四角く、窓が規則的で装飾が少ない・・・という様式とされます。これは1932年におこなわれた「近代建築:国際展(MODEN ARCHITECTURE: INTERNATIONAL EXHIBITION)」でキュレーターを勤めた、ヘンリ=ラッセル・ヒッチコックとフィリップ・ジョンソンの共著『インターナショナル・スタイル』によって示された特徴です。そのタイトルがそのまま近代の建築スタイルの名称として有名になりました。
時代は飛んで、1964年に「建築家なしの建築展」がおこなわれました。それまでの展示は、ある意味最新の建築が対象として扱われて来たのに対し、この展示では、建築家が関与しない市井の人たちの手による建物に注目が集まりました。
さらにポスト・モダンと言われる時代へ入ると、インターナショナル・スタイルからいかに距離をおくかということが模索されるようになります。
1980年、ヴェネチア・ビエンナーレ建築部門の第1回展「THE PRESENCE OF THE PAST」がおこなわれ、過去の様式や地域の文脈というものを、近代建築の中にどうやって組み込んでいくのかが目指されました。この展示では、近代建築の白くて装飾がないというストイックなものではなく楽しげで豊なものを、普遍的なものではなくその場所らしさをどうやって作っていくか、様々な様式をとりこんだ折衷主義を目指すという3つの特徴がありました。
1988年には、1932年にインターナショナル・デザインを提唱したフィリップ・ジョンソンは、「DECONSTRUCTIVIST ARCHITECTURE」という展示をおこないます。これはより純粋に形態操作にフォーカスされており、折衷主義に対抗するものでした。
1995年「Light Construction」というミニマムで透明感を持った建築を紹介する展示がおこなわれます。コンピューターの普及やデジタル時代においてディスプレイで建築を捉える時代に、どういう建築がふさわしいのかという様式として捉えようとしました。
一方、日本では2000年に「空間から状況へー10 city profiles from 10Young Architects」(ギャラリー間)という若手の建築家を紹介するインスタレーション形式の展示がおこなわれました。1990年代の建築は、哲学的で難解な言説と奇抜な造形物を作るというイメージを社会に植え付けたが、これに対してもっと建築を身近でカジュアルなものとして捉えることを目指したものでした。
2008年になると「風景の解像力ー30代建築家のオムニバス」(INAXギャラリー)として、「空間から状況へ」展の次の世代となる1970年代生まれの若手建築家の紹介する展覧会がありました。ここではどういう解像度で風景を見るかということが重視され、非常に繊細で、感覚的な表現を中心に様々なアプローチが示されました。
2010年、「建築はどこにあるの?ー7つのインスタレーション」がおこなわれました。これは東京国立近代美術館で開催された企画展示です。日本の「国立」の美術館で建築の企画展示がおこなわれたのは初めてのことでした。25年前に世界を巡回している建築の展覧会を開催したことがあったそうですが、それは日本オリジナルの企画展ではありませんでした。展示は、世界的に評価されている日本人建築家を幅広く紹介しました。日本人建築家だけというのも、初めての試みだったそうです。そもそも、日本には「建築」という概念が昔からあったわけではありません。日本の建築界では、状況なのか、風景なのか、現象なのか、環境なのか・・・という問いをずっとおこなってきたように思われます。建築とインスタレーション以外のコンセプトが存在しない展示だったそうですが、思考法をより良く理解し、インスタレーションの中にどうやって建築というものを見つけていけるか、建築というものを定義するのではなく、各人が定義を見つけだすということを重視していました。
再び海外へ目を向けると、2010年から2011年に「Small Scale, Big change New Architectures of Social Engagement」がMoMAでおこなわれました。この展示は問題解決のための本当のニーズに合ったものはどいうものか、というのをとりあげた「DESIGN FOR THE OTHER 90%」(アメリカスミソニアンノクーパーヒューイット国立博物館、2007年)という展示をベースにしていました。展示では、充分なサービスを受けられていないコミュニティーのために地域的な必要に応じた建築プロジェクトを紹介しました。それまで、建築はどういう様式性を現代に持つかというのを問題にして来ましたが、それが扱えなくなってきた。建築家という専門家だけではなく、そうではない人間が携わるにはどうすればいいのかという問題へシフトしていきました。

近代建築について見てきた後で、川勝さんは若手の建築家を紹介してくださいました。
403 architecture dajibaは浜松で活動しています。自分たちの半径500mという限定されたエリア内でプロジェクトを続けています。地域から出た廃材を用いて小屋を作ったり、町づくりの提案などをおこないます。地域の物理的なものだけではなく、その場所やそこに住んでいる人を含めて、限定したエリアの中でどのような実践が出来るかを考えています。

連勇太郎(モクチン企画)は、「ネットワーク アーバニズム」という言葉で、建築デザインを資材に出来ないかという、アイデアやデザインをどうやってモノのように扱えるか、専門家だけではなく様々な人が交換したり共有したりできるかをテーマに活動しています。建築のアイデアをレシピ化することで、建築家だけが関わるものではなくて、どれだけ建築というものに主体的に関わっていけるかということを、システムとして都市の中に展開できるかということを考えています。

そして、川勝さんが所属しているRADRESEARCH for ARCHITECTURAL DOMAIN)は 京都を拠点に5人(川勝さんを含む)で活動しています。パフォーマティブなリサーチとアーカイブ化ということをおこなっているそうです。建築のデザインはしていませんが、展覧会やワークショップを企画しています。ある状況や場所に介入していき、いったんその仮説的な仕組みを作ると、いろんな出来事がおこってくるとおっしゃいました。外からの出来事を感知するだけではなく、一度状況を作り出した上で、そこでどういうことが起こってくるのかということを、その場所に対する問いかけみたいなものを見つけていくということが大事なのではないかと思っているそうです。
このRADは、川勝さんたちが大学院を修了してからすぐに立ち上げました。活動を始めるにあたり、自分たちの正しい問いを見つけるためのレクチャーができないか。そこから「Quwry Cruise」という企画をおこないます。活動拠点の場所はとても狭く、この限られたスペースで、出来るだけ頻度を少なくして内容を濃くし、受講料をとれる仕組みでゲストを呼んでレクチャーなどをおこないました。建築ってなんだろうという自分たちの問いに対して答える場所を見つけるために、「radlab. exhibition project」を企画しました。建築家の人たちに限られたスペースで自分の思考やコンセプトをどういう形で落とし込むか、その人にとって建築とは何かということを作品にして展示しました。

また今年このレクチャーに来ていただいた、イ・ハヌルさんと山田麗音さんがキュレーターとして展示した施設「HAPS」は、RADでおこなった町家改修ワークショップによって作られた施設でした。ワークショップには100名以上の方が参加されたそうです。ここでは、どうやって改修したかを「なるべく隠さない」ようにして、またこの町家の改修を通して別の町家の改修を促すツール作りがおこなわれました。

他にも、廃村になった集落に関するワークショップなども紹介していただきました。

近代建築についてMoMAを中心に見てくると、MoMA主導で建築の流行が作られ、海外では様式を問題としていることがわかります。また、日本には建築の基礎がないために、様式以前の問題に関心があることがわかりました。そして現在では、建築そのものだけ、専門家そのものだけではなく、その周辺にいる住む人、地域の人、地域そのものといったつながりに「建築」の意義を見いだそうとする活動が若い人たちからも起こっているようでした。

普段、美術という場所にいると、建築は少し遠い存在のような気がしてしまいます。それはこの大学に建築の名を掲げた専攻がないからかもしれません。おそらく、それだけではないにしろ、建築が抱えてきたことと、美術が抱えてきていることは案外同じものかもしれません。学生たちも、そうした発見があったのではないでしょうか。

RAD

403 architecture dajiba

モクチン企画


それでは。